昔のリザルト | JUSTICEリーダーのブログ

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バイクレースと利根川のバスフィッシング情報やラーメン屋の情報まで(^^) 50過ぎのおっさんが毎日つけてる日記です。


昔のリザルトといろんな思い出‼︎







ネットで見つけた1990年関東選手権第2戦筑波戦のリザルトびっくり 更に1991年の開幕戦のリザルト‼️





"ノービスレーサー激走の記録館"

こんなのをまとめてくれてる方が居る事には本当に感謝しなくてはいけませんねおねがい



ありがとうございます。




このサイトの中で見つけた下矢印'90関東選手権筑波大会の第2戦 SP250ccクラスの予選結果

'89までSP125ccクラスにバルブ無しのRZ125で出ていて、予選通ったりウェイティングだったり程度だった俺が…  いきなりフロントローに並ぶ事が出来たアセアセ



'89の後半から年明けまで、SSフクシマって有名ショップワークスチームのエースライダーになれた事のプレッシャーと闘いながら慣れないNSR250Rで練習を重ねてきていて、何度となく転倒を繰り返しながらも徐々にはスピードをつけてくる事が出来てはいた。  

けど… まだまだ本物のスピードとはいえずショボーン  不安の中でのレースだった。


当時はショップワークスと呼ばれる有力チームが沢山あって、Jhaレーシング、ミラージュ関東、SUGAYA、コシカワ八千代、SS-ISHII-OX、SP忠男などなど…

他にもいっぱいありましたからねアセアセ 本当に激戦の時代でした。



ライダーもスターライダーが沢山居て、中でも及川玲、沼田憲保は有名で菊池健一郎、松本順、蜂谷直純、前川智弘、山本次郎、平 義浩、金森真佐樹、芳賀健輔、加賀山悟、松戸直樹、及川誠人…  他、実力のあるライダーが大量に居たんで本当に大変な時代でした。 

当時はバチバチで口も聞かなかった上矢印の人達だけど、今は皆んなめっちゃ仲良しですニコニコ


 

この時代の関東選手権の開幕戦は2月アセアセ  

この第2戦は3月の頭、キンキンに冷えた路面でタイヤウォーマー無し…  予選時間は10分


まだAsiaコーナーがなかった時代なんで、ダンロップアーチの先、左高速は開け開けの全開走行アセアセ 接地感とかウンヌンは無く…  度胸試し的な感じの危険な区間だった。

当時のグリッドは4.3.4.3…の9列


少しエントリー台数も落ち着いてきていて参加台数は156台、ま〜それでも予選は6組あったんで最低でも組の5番手以内には入ってないと路面コンディションの不均等があった場合に頭取りとかされると予選落ちもありえる時代だった。



偶然あったそのレースのグリッドの写真❗️

手前から3番目、ゼッケン3の俺が… ゲロ吐きそうなくらい緊張してる様子わかります❓爆笑




決勝結果が下矢印コチラ

確か、オープニングラップに1ヘアの進入で誰かのインにミサイルの様に飛び込んで転けたんじゃなかったっけな❓

そこから追い上げての9位だったと思う。 


チェンジペダルが曲がってて…  手🫴でシフトダウンして走ったんだよな〜爆笑 

確かそんな曲芸乗りしてる写真があったから後で写真探しとこう。



因みにこのレースで優勝した玲ちゃんは今も走ってて、幻のコースレコード出しちゃうくらい速いんだよウインク

来年はどんな体制で走るか❓❓だけど、楽しみなオヤジライダーですニヤリ





同年の第9戦❓で遂に念願の初優勝‼︎   2位は菊池さん

ここに立つ事をひとつの目標として中学を卒業してすぐに赤城山から下山して1人暮らしして頑張ってきた俺…    さすがに最終ラップは涙🥲で前が見えなかったな…笑い泣き




そんな俺に3位の芝内さんは優しかったけど菊池さんは俺に冷たかった爆笑




最終戦前にあった筑波バトラックス3時間耐久レースでは、(宇川徹、柳川明、組)や西の方で有名なチームも参戦してきててかなりレースは盛り上がってた。

俺は相棒のカナモリのタイムがあまり良くなかった事もあって爆笑 前半から猛プッシュして2位以降にリードを広げながらトップを独走してたんだけど、乾クラのシールからオイル漏れしてガーン  黒旗振られて終了…タラー

上矢印煙が出てるし…えーん 

タイヤがニュルニュルだったし滝汗






次の最終戦も優勝して選手権で2連勝🏆

シーズン前半は焦りから転倒が続いたけど、終盤になってからようやく安定した走りが出来る様になってきてシリーズランキングは4位で終了した。





周りがNA(国内A級)やIA(国際A級)に昇格する中、俺はもう1年ノービスで戦う事を選んだ。
SUZUKI、YAMAHA、HONDAの3チームからオファーを受けたけど、俺が選んだのはHONDAのチーム、コシカワ八千代❗️    チームからは年間タイトルを取る事を至上命題とされていた。



タラレバ言えば、この時にSUZUKIに行ってたら…  もっと違う将来が待っていたかもな〜❓ なんて… 今でも寝る前に思う事がある真顔






コチラ下矢印は翌年'91年の開幕戦の予選結果❗️

’91の2月の開幕戦で既に2秒7まで出てたんだねびっくり

自分の事ながら…速かったんだな〜ガーン

とりあえずこのタイムがコースレコードになったみたいねぶー

※就臣がまだ幸男だった頃ね爆笑



で❗️   レースは優勝‼︎


前年の2連勝に続いて3勝目!
3連勝したしレース中に更にコースレコード更新も出来た。


3周目にBest timeを出せているのがイイねウインク

2位の健輔も6秒近く離しての勝ちだったんで、ちょっと無双モード入ってたみたいだにやり

しかし…  この時代のクソタイヤ(失礼…現代のタイヤに比べたらねアセアセ)で2秒台とかって、正直めっちゃ速いと思うよ❗️マジで…        当時の俺が今俺が乗ってるNSR250Rに乗ったらすぐに1秒台前半出しちゃうレベルだと思う上差し いや…0秒台かな❓  だって当時はサスもノーマルだしキャリパーもなにも全部ノーマルのままだからね。  今のテイストNSRのフレームを’91にして走らせたら楽勝0秒❗️ってレベルの速さじゃないかな❓ 

1991年の公式タイムが1分2秒0、非公式では1分1秒7まで出てたし、富士スピードウェイでもコースレコードを持ってたんだよね。  


53歳の俺なんて20代の頃の70%程度の走りしか出来てないんだから… マジで当時の俺は速かったと思うてへぺろ

って昔の自分を褒めてみた😅





あ… 因みに。 '91年はそれなりに勝ってシリーズチャンピオンを獲得しましたウインク   

一応、ちゃんとチームとの約束は守りましたよ。


F3も出てたんだけど、数回出て勝って骨折して…  チームからもう出なくていいって言われて出なくなっちゃったんだえー あんな乗りにくいバイクには乗りたくなかったけど…  やっぱりF3もチャンピオン取りたかったなショボーン



そして翌年、ノービスから飛び級で国際A級に特別昇格して、更に激戦のIA GP250ccクラスに参戦を開始したんですニコニコ    そこでまた'90にライバルだった菊池さんや玲ちゃん、沼さん達と全日本で戦う事になった…




下矢印パレードカーでコースを1周する俺と健輔

なにやら2人してヤラシイ目👀してるな〜爆笑


※当時は3位までに入賞するとオープンカーにキャンギャルと一緒に乗ってコースを1周していた。



この頃から健輔と就臣はライバルの俺にもなにかと甘えてくる可愛い奴らだった爆笑

けど…4つ上の俺の事を「コバちゃ〜ん」…って呼んでるあたりがナメてるよな😆   それは今だにかわらない。


Marlboro YAMAHA時代の健輔❗️



16歳からず〜っとSUZUKIで走ってきたMr.SUZUKI

加賀山就臣❗️  



その後、健輔も就臣もワークスライダーになっていったんだけど、HONDAの俺はプライベーター止まりで早めにレースを引退した。 タラレバ言えば色々あるけどさ…  ぶー



けど、あの時レースを引退して良かったかな❓って思うんだ。  あそこで辞めてなかったらどうなっていたか❓  色々思うところはある。









SUZUKIのワークスライダーになった沼さんは事故で亡くなってしまった…ショボーン     

凄くいい人だっただけに残念でならない。