ようこそ映画の小部屋へ
今夜は『天使と悪魔』
をお迎えしました
新たな歴史の謎が暴かれる−。
タイムリミット殺人ゲームが、今始まる! 『ダ・ヴィンチ・コード』シリーズ第2弾!
<ストーリー>
新しい教皇を選出するコンクラーベを行うことになったカトリック教会の総本山ヴァチカンで、候補者である枢機卿たちが誘拐される事件が発生。
ヴァチカンの依頼で調査に乗り出した宗教象徴学者ロバート・ラングドン教授は、教会に迫害された科学者たちが創設したという秘密結社イルミナティが、再び現代に姿を現したのではないかと推理する。
犯人はスイスの研究所から恐るべき破壊力を秘めた"反物質"を盗み出し、ヴァチカンの爆破をも計画。ラングドン教授は美人科学者ヴィットリアの協力を得て、謎に包まれたこの事件の真相に迫っていく。
舞台はローマのヴァチカン。
神の力の存在を、科学で証拠づけたい、それが宗教と科学の融合だ、というような発想が出てくる。
そしてラストでは、科学だけでもこの世は割り切れない、宗教だけでも現実は立ち行かない、というようなムードで終わる。
冒頭でカトリックのトップの教皇が死ぬが、毒殺したのは、孤児で、教皇に育てられたマッケンナ司祭。
殺害理由は、教皇が科学者の研究に理解を示していた異端者だ、というもの。
これは、マッケンナの信仰が、親への愛より勝ってしまったということなのだろう。
教皇のことを周囲も他の信者もFatherと呼ぶ。もちろん神父もFather。教皇は父中の父。
マッケンナにとって教皇は、育ての父でも信仰上の父でもある。
その教皇を、科学に加担した異端者だ、という理由で毒殺するのだ。
マッケンナは血の通わない殉教者、とも言えるだろう。
教義に外れるならばその人を異端者だという理由で殺す。
これはまるで、健康の為に死ぬ、とか、法律順守のために殺すとか、そういう、本末転倒というベクトルなのだろう。
もとは命を大事にするための下位構造の付属物が、命より上位に扱われてしまうという過ち。
熱狂的な信者、というのはそれをしてしまうのかもしれない。
聖書の熱狂的愛読者が、そのストーリーを重んじるがために誰かを殺す、というような。
書いた人からすれば、いや命の大事さ、尊さを訴えるために書いたのに、なぜこの物語が殺人に利用されてしまうのですかと嘆きたいような。
マッケンナ▼の真っ直ぐ過ぎる感じは、その行動の端々に表れる。
中庸がないのだ。ゼロか百。
オールオアナッシング。
一本気とも言える。
融通が利かないというか。
臨機応変や人に寄り添うという感じがまるでない。
オールオアナッシングじゃないことが存在という現象なのに。極端な南極と北極の間に人類の生活圏が広がっているのに。ゼロから無限への爆発がビッグバンで、その緩やかな爆発のまにまに我々は点在しているというのに。
オールオアナッシングとは、存在の否定だ。
その異様なオールオアナッシングっぽさを、ユアン・マクレガー▼が天才的に演じている。
マッケンナは、反物質があと五分で爆発するとなると、それを持ってヘリコプターに乗り込む。
皆、彼が死を覚悟でヴァチカンを守ろうとするつもりなのだと思う。
反物質はビッグバンのときに生じ、物質に質量を与えると言われる物。
スイスの研究所がその微量の生成に成功したとなった。
それは新エネルギーになるものだが、故に爆発もする。
この反物質は、密閉容器から出て物質に触れると、瞬時に莫大な質量を与えてしまって、つまり爆発する。
その破壊力は、ちょうどヴァチカンが丸ごと吹っ飛ぶほどになる。
これは、原子力の次に想定されるエネルギーなのだ。
原子力はウランやプルトニウムなど重い原子から、E=MC二乗(エネルギーは質量×光速の二乗)の法則で取り出せる大きなエネルギー。
反物質は、作り出せれば電力革命になる。よって映画の中で反物質の微量生成に成功したスイスの女性研究者ヴィットリア・ヴェトラ▼は、
この反物質が電力会社の手に渡ってしまうという悪いシナリオを想定して心配したりしている。
ヘリコプターの高度をぐんと上げるマッケンナ。
スイスから来た女研究者、▼は涙する。
タイムリミットとなり空で爆発が起こる。
ヴァチカンに集まった人々は風圧で吹っ飛ばされる。
しかし死者は出ていない様子。
そこへ空からパラシュート。
マッケンナは死んでいず、もう英雄。
慣例を破ってでもマッケンナを教皇にすべきだ、となる
(教皇が死に次期教皇の選挙コンクラーベが行われていたが、候補となる人物が次々誘拐殺害されていたので)。
マッケンナもその申し出を受けようとなったところで、
そもそもマッケンナが教皇を毒殺していたのだということがバレる。
マッケンナは捕まる前に焼身自殺。
焼身自殺は、狂気の沙汰を表現できる、と感じた。
そうして、コンクラーベが行われ、新たな教皇が誕生して人々の前に姿を現すと拍手喝采。
とそこでエンディング。
根幹イメージであった天動説を貫き通すために地動説を提唱する科学者やそれを信じる者たちを異端者にしてきた宗教だが、その過去の過ちも含めて、人を赦す宗教というものの存在理由を示す、というようなラストだと思った。
宗教と科学は矛盾しないもの縦軸横軸十字に交わり
九螺ささら
クロスと五芒星は、根源的にして究極のデザインだと思う。
これ取られたら、もうそこには負けるよというような、最強パワーアイコン。
その二つを取っちゃったキリスト教、もう永遠に勝ち、という感じ。
クロスは全ての鍵っぽいし、五芒星で、とにかく何でも説明できそう。
『天使と悪魔』で検索するとこの映画が上がってくる。
こんなメジャーっぽいタイトルの映画が今までなかったなんて。
いやしかし、通俗的すぎて芸術っぽくないのか。
いや、『人生』というタイトルくらい真正面なため、宗教と科学というような根幹的テーマでなければ名前負けするということなのだろう。この映画は、その重いテーマをエンターテインメントにした。
それには、トム・ハンクス演じるロバート・ラングドン教授が、宗教象徴学者である必要があったのだろう。この宗教×象徴で、重厚長大テーマが帰納昇華され、シンプル記号、暗号ゲーム化されてゆく。そしてそう整理されると、あとはそのパズルゲームを楽しむ、という姿勢を取ればいい。
例えば土、火、水、空気という四元素が象徴的に出てきて、次期教皇候補の一人がまず土の焼き印を押されて殺されている。すると、じゃああと三人の教皇候補が火、水、空気関連のイメージの中で殺されるのか、となる。
ここでギアが噛む。
でなければ脳内が重く散漫で苦しい。
エンターテインメントとはある種消費の楽しさなのだから、カウントダウン的に何かが次々と処理されなければならない。
そしてその中で、今回ならば(次はあの人だ!助けないと!)とハラハラを楽しむことになる。
この映画冒頭ではタブー、禁忌感が漂っていたが、その踏み込み感、ライン越え感もエンターテインメント。
ここまで周到なら誰も文句は言わないでしょう、教皇だってこの本の愛読者になるでしょう、という原作の凄さの勝利。
原作者のダン・ブラウン
われわれはどこから来て、どこへ行くのかー--。『オリジン』
ダン・ブラウン作品には、トム・ハンクスがマッチするのだろう。
ローマ市内で撮影を行うトム・ハンクスとアイェレット・ゾラー。ここはちょっと一息ローマの休日のようなシーン。
とてもお美しいイスラエルの女優、アイェレット・ゾラー。
イスラエルのモニカ・ベルッチなのだろう。
以下モニカ・ベルッチ7枚。
来日時。