ようこそ映画の小部屋へ
今夜は『サウンド オブ ミュージック』
をお迎えしました
サウンド・オブ・ミュージック (映画) - Wikipedia
「北風と太陽」だと思った。
ナチス側との闘いに、トラップ一家は愛で勝つ。
やられてもやりかえさないのが平和主義。戦わないということが己の闘い。
芸術の街ウィーンを首都とするオーストリア、永世中立国スイスは戦争反対。
しかしヒットラーのナチスドイツはオーストリアを併合、トラップ一家のお父さんフォン大佐に召集令状が来る。
しかしフォン大佐は戦争反対、オーストリアからスイスへ国境を抜けて逃げようとする。
そこへ追っ手が来る。
マリアがいた修道院の修道女たちはマリアたちトラップ一家をかくまう。
追っ手が修道院に入る。
何とか隠れおおせたかと思ったところで長女の彼氏がフォン大佐に銃を向ける。彼氏はナチス軍人になっている。
そんな訳ないだろう、そんなタイミングでそこに彼氏がいる訳ないだろうと思うが、この映画ではここでこうならなければならない。そのために長女と彼氏のシーンを重ねて伏線を張ってきたのだ。
観客はハラハラして、悔しくて残念でどうしようもない。
なんできみはそこにいるのだ、なんでトラップ一家を見逃さないのだ。彼女の家族を。
洗脳されたとしか言いようがないが、歴史はそうだった、事実はそうだった。
若いから。そうだ。フォン大佐もそう言って、娘の彼氏を説得しようとする。
フォン大佐は家族を逃がし、自分と彼氏で一対一にする。
そして正面から彼氏に近づく。
彼氏はフォン大佐に銃口を向けている。
しかしフォン大佐は一歩一歩彼氏に近づく。
目を合わせながら。
その迫力に、彼氏は負ける。
かくしてフォン大佐は彼氏の銃を取り上げた。
ほっとしたところで彼氏は大声を上げてナチス側の軍人を呼ぶ。
通り過ぎた軍人たちが走って戻ってくる。
フォン大佐は家族を乗せた車を発進させる。
すぐに車に乗り込む軍人たち。
とそこで、車は動かない。
そこで修道女の一人が
「わたしは罪を犯しました」
と言う。
もう一人の修道女が
「わたしも罪を犯しました」
と車に細工をした道具を見せると、
修道女のトップはそれを是認するように笑顔。
そこで泣いてしまった。
こういう、危険を冒して他人を助ける話は誰でも感動するだろう。
自己犠牲というような哀しい感じではない。
陽気で勇敢。
このシーンで
『天使にラブソングを』を思い出した。
これは、マリアの「みにくいアヒルの子」話でもある。
適材適所話というか、マリアに修道女は合わない。
マリアが、本当に型にはまらないというか、はまれないというか、自由過ぎて、愛すべき存在なのだが組織では困ったちゃんでもある。森ガール的な、「山で歌を歌っていたら止まらなくなって」、感動屋さんというか、感受性が強いというか、
長くつ下のピッピというか、
窓ぎわのトットちゃんというか、
愛が駄々洩れというか。
その愛の受け皿にぴったりはまったのが、トラップ家の7人のこども。
お母さんが死んでからというもの、お父さんのフォン大佐はまるで軍隊のようにこどもたちを躾ける。
父の愛なのだが、母の愛がないためこどもたちは自分を押し殺している。
ここにマリア登場。
こどもたちと周波数がばっちり合う。
こどもたちはマリアによって自分を解放、お父さんのフォン大佐も、頑なだった心が徐々にほぐれ、歌が戻ってくる。
悲しいときは、心を鬼にしていないと、涙で内部が洪水になって自分が溺れる。
だからフォン大佐も、心の門に鍵をかけていたのだ。
この、ほぐれていく男、ほぐしていく女、の構造には『王様と私』を想起した。『王様と私』は1956年の映画。『サウンド オブ ミュージック』は1965年の映画。
どちらも、こどもたちが愛らしい。
こどもらしく、媚びず、そのまま生身でそこにいる。
それが非常に愛おしい。
トラップ家のこどもたちのそれぞれの役割分担も納得。
長女は16歳でもう大人。
女性として、マリアに相談し、マリアは大佐への愛で学んだことを長女に話す。
この映画には脇役にも血が通っているというか、ストーリーの犠牲にならない。
大佐と結婚の噂がある金持ち女性(▼エリノア・パーカー演じる男爵夫人)は、
マリアと大佐が相思相愛であることに気づくと、マリアに「男の人の愛はすぐ冷めるのよ」などと言ってマリアを失望させ、家から追い出す。
そしてマリアがいなくなったところで二人は婚約の運びに。
しかし二人をよく知っているイベントプロデューサー▼は、
そんな二人の嘘を見抜く。
このイベントプロデューサーが、色んなシーンでクッションになったり潤滑油になったりする。
修道女長は、大佐を愛したが故に傷付いて修道院に戻ってきたマリアに「ここは避難所ではありません」「男の人を愛しても、神様への愛は減りません」などと言う。
マリアは素直になって、こどもたちのところへ戻る。
すると、マリアの心の内を知らない大佐は金持ちの女性と婚約している。
こどもたちはまるで炭鉱場のカナリア。マリアの前でなければ歌わない、歌えない。そんな気分にはなれなかった。
実は沈んでいたのはお父さんの大佐も同じこと。
かくして大佐は婚約を取り消し、金持ち女性は都会暮らしに戻り、晴れてマリアは大佐と結婚し、こどもたちの母親になり、こどもたちはやった!となるのだった……。
ということなのだが、
『シェルブールの雨傘』のような全編ミュージカルではなく、至って自然。
むしろ「ここが歌じゃなくセリフだったら興醒めだろう」
と納得拍手。
ジュリー・アンドリュース演じるマリアが古いカーテンでこどもたちの遊び着を作ろうと(古いカーテンで作られた遊び着▼)
思いつくシーンなど、「赤毛のアン」の自由さを彷彿とさせる。
思いつきそれが魔法の始まりで我々は全員魔法使い
九螺ささら
マリアを演じるジュリー・アンドリュース▼は、茶目っ気や素朴でレトロ可愛いファッションが、
『プリティ・イン・ピンク』のモリ―・リングウォルド▼に似ている。
『プリティ・イン・ピンク』は『ブリジットジョーンズの日記』っぽい。いわゆる青春ジグザグ物。街角青春グラフィティー(落書き)
劇中で出てくるドレミの歌
こちらは、ペギー葉山さんが歌うドレミの歌。日本語詞もペギーさん🍋
日本人にはすっかり、「そうだ 京都、行こう」の歌になっている、
『サウンドオブミュージック』の挿入歌、「私のお気に入り(My Favorite Things)」。三拍子の、ワルツ
こちらはジョン・コルトレーンが、ジャズに料理したもの。
サウンドオブミュージックの映画の公開は1965年だが、ミュージカルとして1950年代に上演されているため、映画公開よりも前の1961年にカバー▲、となっているのだろう。
リチャード・ロジャースは、劇中歌のサウンドオブミュージック、
エーデルワイスの作曲者でもある。エーデルワイスはオーストリアを象徴する花。この歌は、わたしの母もよく歌っていました。母はペギー葉山さんの大ファンで。
カウベルのおみやげ▲。オーストリア人にとってのエーデルワイスは、日本人にとっての尾瀬の水芭蕉的イメージだろうか(こちらは熊よけの鈴▼)。
鮫島有美子さんによる、オペラチックな「百万本のバラ」
オリジナルは加藤登紀子さん
久保田早紀さんによる、「異邦人」チックな、シルクロードっぽい「百万本のバラ」
🐧🐧🐧