法の存在形式における分類として、成文法・不文法という分け方があります。これは、当該の法が文書の形で制定されているかどうかという観点で分けられたものであり、例えば日本では「日本国憲法」や「民法」(明治29年法律89号)などが成文法に当たります。対して、不文法というのは、慣習法と呼ばれるものや判例法と呼ばれるものがこれに当たります(なお、判例法は、一見すると判決文(厳密には裁判書)が存在するために成文法だといえそうですが、判決文の中に含まれている法原則が拘束力を持つ場合であり、不文法だとされます)。

前置きが長くなりましたが、今日のお話は、この不文法の典型である慣習法です。慣習法というのは、「人々の間で行われる慣習規範で、法的効力を有するもの」とされます。慣習法については、刑法上、罪刑法定主義から、これが刑を根拠づけたり加重するために用いることは許されていません。慣習法が最も活躍するのは民法の領域、つまり私法の領域です。「法の適用に関する通則法」という法律があり(昔は、「法例」(明治31年法律10号)という名の法律があったのですが、これが改正されたものです)、その3条が「公の秩序又は善良の風俗に反しない慣習は、法令の規定により認められたもの又は法令に規定されていない事項に関するものに限り、法律と同一の効力を有する。」と規定しています(この規定については、民法92条との関係で解釈論上の論争がありますが、専門的過ぎるので脇におきます)。

この慣習法というものの存在からわかることがあります。それは、「法律がなくても法は生まれる」ということです。それどころか、「慣習法は制定法を破る」ということが認められています(もっとも、慣習法を破るために制定法が用いられることもあります。この場合には「後法は前法を破る」というロジックが採用されることになります)。これは、法律観の問題もあるのですが、人々の行動が一定の一般性を有し始めたとき、そこには秩序が生まれ、それが「法的確信」にまで高められた時、それが法となるということなのです。これこそがまさに「上からの法」ではなく、「下からの法」であり、最も遵守されやすいものだといえます。そこでは、人々の欲求や要請、さらには効率性などが絶妙なバランスの上で成り立っていることが多いのです。その意味で、「暗黙の了解」や「みんながこうしている」というのは相当に重要な意味があるのです。
もっとも、「みんながこうしている」というのは危うい面もあります。何度も書いているように、「みんなが窃盗をしているからと言って窃盗をしていいことにはならない」というのは、それなりに受け入れてもらえると思っています(「窃盗」を「殺人」にするとより共感を得られるはずです)。ですが、「みんな」が「窃盗(ないし殺人)」をしているとすると、その時には、「窃盗(ないし殺人)というのは法的許容性を有している」、つまり、窃盗(ないし殺人)は法的に許されていると理解することすらできます。問題は、その許容性の可否です(これが身近で鮮明な形で現れるのが道路交通法です)。その見極めは難しく、絶対に許されない部分と流動すべき部分をどこに線引きするかというのは、その規範の目的と手段を丁寧に分析・理解することを要求するのです。

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