現実と夢幻が混在し、観ているだけで混乱を来してくる。ブルーの小箱の鍵を開けた前後で、登場人物の名前が変わり、ある意味分かりやすい。後半が現実で、前半は願望とするのが、一般的なようだ。しかし、その逆で構わないと思う、混沌としたイリュージョンの世界が、デビット・リンチの世界、この作品は連綿と続く彼の作品の集大成と言えるだろう。全てのシーンが、何かしらの、ベティ(ダイアン)の喜怒哀楽が表現された映像になっている。謎多き作品は、何度みても新しい発見がある。それは断片的な感情、夢、潜在意識の表現が、積み重ねられているからだろう。
ナオミ・ワッツの存在を初めて意識したのは、この作品だと思う。ベテイの愛の悲しさと苦しみから生まれた、この物語は、彼女のショッキングで体当たりの演技なくしては語れないのだ。
後半を現実とするなら、ダイアンは、ローラ・ハリング扮するカミーラを愛していたが、その関係は破綻しようとしていた。ライバルだが、女優として格も違い、カミーラのその道は、ダイアンと違って、順風満帆に見える。
ダイアンは、その悲哀から、前半の幻想を抱いたのだろう。自分に都合のいいシナリオ。彼女はベティとなり、過去を忘れてしまったリタ(カミーラ)に、親身になって世話をする。一度観た人なら、このストーリーが、全てダミアンの恋の布石だと分かっているだろう。
ベティは、オーデイションに行くと、相手の男優と熱いキスシーンを演じる。これは、その後のリタとのベットシーンの伏線になっていて、ベティの燃え上がるような肉体のほてりが、スクリーンから伝わってくる。それに、叶えられなかった女優の名声までもを手に入れる。ダイアンが、求めていた幻想が、そこには再現される。
しかし、そんな幻想を抱けば抱くほど、現実は惨めで辛い。愛するがゆえに、カミーラを手放すぐらいなら、殺そうという気持ちに心が動く。ラストに至るまでの、錯乱したごとくの映像は、彼女の愛と殺意の交錯だろうか。言葉にならない映像こそが、映画の真骨頂なら、この作品はトップクラスの映画作品だ。
そのデビッド・リンチの映像に欠かせないのは、アンジェロ・バダラメンティの音楽だ。サスペンスのような、ホラーのような、スリラーのような空気感を館内に充満させる。映像とマッチして、終映しても、誰も凍りついて席を立てないような、圧倒的世界観を生み出す。この戦慄は、どこかキューブリックに似ている。