般若心経の一節に「無無明亦無無明尽」「無老死亦無老死尽」というものがあります。
本やネットの翻訳では「本来無明(わからない状態・無知による迷い)はなく、また無明がなくなることはない」「本来老死などというものはなく、無いのだから老死がなくなることはない」というような内容を見かけます。
なんだか、わかるようなわからないような感じです。
結局どう生きたらいいのか?というもどかしさがあります。
ここはわたしも理解に苦しんだ部分ですが、このようなことだと思います。
「すべての存在の元となる、ただひとつのエネルギーの海(神さま)から見れば、そこにあるものはすべて自分自身なので、すべては明らかであり、知らないことなどなく、当然その視点から見るならば迷いや苦しみは無い。しかし、私たち人間が、迷い、悩み、それでも成長していくことに重きを置き、喜びとするこのシステムがなくなることはない」
「また、そのただひとつの存在、そのエネルギーの海は永遠なので、それ自身が老いることも死ぬこともない。しかし、私たち人間が、老いて死に、また生まれ変わって新しく人生を生きる。またそこに魂の新しい成長や、新しく生きなおす喜び、発見がある。そのようなシステムとしての老いと死はなくなることがない」
わたしは般若心経のこの部分をそのようにとらえました。
この世界を解体していき、例えば原子や電子などの繋がりをほどいて、すべてエネルギーの状態になったらひとつのエネルギー体になります。ただひとつの存在です。その存在には知らないことも足りないものも、老死も、目も耳も鼻もありません。なにかを味わったり、やさしくほほをなでる風を感じることもありません。それ自体がなにかを知覚することはないのです。
そこで私たちが必要です。
私たちには目があり、息をのむ雄大な雪山や、キラキラ輝く遠い海、様々な景色の美しさを見ることができます。
私たちには耳があり、家族の笑い声や、優しい歌声を聞くことができます。
私たちには鼻があり、甘いチョコレートや、花々のにおいを感じることができます。
子供の髪をなでたり、汗をかきながらアイスクリームを食べたり、仲間と踊ったり歌ったりすることができるのです。
神さまと呼ばれる、その唯一の存在、ただひとつのエネルギー、ただひとつの生命、その大きな海には私たちが必要です。
「無わたし亦無わたし尽」というタイトルをつけました。
これは「神さまの視点から見れば “わたし” は存在しない。すべて自分だから。しかし “わたし” がなくなることもないのです。老いて死に、家に帰るように神さまのもとにもどるけれど、私たちそれぞれの存在はなくならないのです。家族でありワン・チーム。だけど必要だからわたしがいる。必要だからあなたがいる。それは消えない、なくならない」という意味です。
わたしは般若心経の行間に、このようなことが込められていると信じています。
わたしも、あなたも、みんな必要な存在です。
必死に存在を証明しよう、価値を証明しようと生きていたけれど、もう認められているのです。そこにいて、わたしが、あなたが考える、感じる、息をする。
それは神さまが認めたあなたという存在の、その確かな証拠なのです。
自分の存在を、じぶんの価値を証明するための戦いはやめて、少しでも好きなことをしていいんじゃないでしょうか。
だってそのために私たちはいる!
私たちを通してしか、神さまはこの世界の美しさも、スポーツの躍動感と勝利の感動や、移りゆく季節の眩しさや、宇宙ってすごいな銀河ってきれいだな、とかわからないからです。
私たちを通してしか知覚できないから・・・だからみんなが必要なんです!
わたしは般若心経にそのようなことを感じました。
皆さんはどうですか?
