般若心経 翻訳 羯諦羯諦 波の音  | じゅんのブログ

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般若心経について、思うことを書いています。

 

最初の記事でわたしは般若心経の最後に出てくるマントラ

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦」を 

 

『ザザーン、ザザーン、シューーーザザーン!、、シューーーーー、ズザザザーン!!』

 

と波の音として翻訳しました。

それについて、なぜそう思うのかも、その記事に書いていますが、今回はもうちょっと説明したいと思います。

色即是空空即是色

という言葉が最初のほうに出てきます。

 

「舎利子 色不異空空不異色 色即是空空即是色」


というものですが、これは

 

『シャーリプトラよ、エネルギーと物質は違うものではない
物質を紐解けばエネルギーになり、エネルギーをよりあわせれば物質となる』

 

というような意味だとわたしは思います。

ただ単にその事実だけを知らせたいなら「色即是空」だけでもよいのでは?と考えました。
ちなみにこれはアインシュタインの相対性理論にでてくる「E=mc2」と同じ意味だと思われます。わたしは式の意味自体は理解していませんし、詳しく説明はできませんが、検索すると

 

「質量とエネルギーは本質的に同じであることを示しています」

 

と出てきます。これはまさに般若心経が言いたいことのひとつではないでしょうか。

 

でも、般若心経では

 

「色不異空空不異色 色即是空空即是色」

 

と繰り返します。わたしには、これは寄せては返す波の形を表しているように見えます。
わざわざこのように並べているのはやはり何か意味があるのではないでしょうか。
いらないものをそぎ落として、262文字と限りなくシンプルにしているのに、こういう形になっているのは、そこに込めたものがあるんじゃないかとわたしは思います。

21回出てくる「無」

般若心経に出てくる「無」は21回です。
いろんなものを「無」で否定しています。
それは結局、無い無いずくしで全部否定しているように見えます。

「もしすべてが本来のエネルギーの状態(純粋な神だけの状態)に戻ったならば、耳も目も口も、音やにおいや味も、無知や老死もすべて無い。悟りもない。全部本当は何もない」

 

そのように言っているように感じます。これで終わったら本当に救いがない気がしますが、実は

 

「でも、だからこそ逆にあなたたちが必要です!」


「それぞれが、わたし(神)の耳となり目となり口となって、そよ風や家族の笑い声を聞き、この宇宙や地球の自然の造形美や共に生きる動物たちを眺め、おいしい水やバラエティー豊かな食事を楽しんで!」


「人生を愛して!生きることを楽しんで!私(神)の代わりにね♡」

 

というようなことが込められていると思います。

21回も「無」が出てきますが、実際に唱えていると非常にリズミカルに感じます。ラップで言えば「韻を踏む」状態です。AIで調べると

「韻を踏む(いんをふむ)」とは、詩やラップ、歌の歌詞において、似た響きを持つ言葉を一定の箇所(主に文末)に配置し、リズム感や心地よい響きを生み出す技法です。

と出てきます。つまりリズムという「波」を表していると思います。もしそうでないなら、先に「コレとソレとアレと・・・」と指して「それらは全部『無』です」というような言い方をするのが普通ではないでしょうか。

不要な言葉を極限まで削って大事なことを伝える、ということが目的ならば21回も同じ言葉はいらないはずです。
わたしにはその「無」の配置のリズミカルさが、文字の意味とはべつの何かを伝えようとしているように見えます。

そして終盤、ダメ押しで

 

「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」

 

と繰り返してきます。波のようです。最後にマントラで

 

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」

 

・・・そうきたら、もうこれはやはり波の音なんじゃないの・・・?というのがわたしの考えです。

なぜ「波の音」を般若心経に込めたのか

観自在菩薩さまが瞑想中に見たものは、最近動画などで見ることができる「ミクロからマクロ」の視点だと思います。


原子・電子からカメラが引いて行って細胞→臓器→人間→家→町→日本→世界→地球→惑星→太陽系→銀河→銀河団
そのようにこの物質世界の無限の構成を短時間で垣間見ることができる映像が現代にはありますが、テレビなど無いその時代です。それでも菩薩さまは瞑想中にそのようなことを理解できる状態まで神さまの視点と一体化したのではないでしょうか。

 

しかし、その発見があって、自身が「世界は実はエネルギーから、つまり神からできている。あの人も私も。木も海も太陽も。」と気づいたとしても、その当時、はたして誰かにそれを説明出来ただろうか、と思います。誰が信じるでしょうか。原子や電子など見えません。まして物質がエネルギーで出来ているなど、今の時代でも説明されても正直信じられないくらいです。

ましてや当時、エネルギーという考え方自体が無かったのではないでしょうか。

「この世界はエネルギーひとつだけ、の世界」

非常に伝えづらい真実です。

 

「でも、それがわかれば・・・みんなが想像さえできれば・・・もう生きるために争うことも、思い悩むことも、老いて死ぬことにおびえなくてもよくなる。・・・救われる。そして違った見方で人生をとらえ、たとえ苦しむことがあるとしても、生きることに喜びを見出せる。自分の命にも価値を見出せる!」

 

そのように考えたかもしれません。・・・わたしの想像ですが。

 

「この世界はエネルギーひとつだけだけど・・・ほんとうは自分も無い。耳も目も口も、ほんとうは神さまからの借り物で、ほんとうは何もない。でも私たちは必要とされてここに存在し、この世界を生きている。」

 

そのように思ったかもしれません。


と同時にこの世界の実相である「エネルギーただひとつだけの世界」を、みんなにどう伝えるか、ということはやはり難しく、相当悩んだのではないかと考えます。


わたしは思い悩むとき、いつも海を見に行っていました。光り輝く水面と、心地よい波の音を聞いていると、少しだけ癒された気がして、また日常に戻ることができました。


昔の人にも、同じ効果があったかもしれません。同じように海を見ていたかもしれません。そして気が付いたかもしれません。

 

「海」はエネルギーの世界に似ています。


「海」はひとつですが、雲になり、雨になり、川になり、時には誰かの悔しい涙となり、時には誰かの心躍る汗となり、旅人の渇きを潤す一杯の水となり、その旅人が見つめる雄大な雪山の雪となり、やがてまた海へ戻ります。

姿や形を変えて地球を大きく循環し、海へと戻ります。
観自在菩薩さまや弟子たちは、そこにこの世界の実相を「ほんとうはエネルギーひとつの世界の縮図」を見出したのではないでしょうか。

「私たちはあの海の、あの波のように、輪廻を繰り返し、この世界を生きている。神さまの愛に守られて・・・なんて素晴らしい・・・!」

「あの波に乗ってこの世界に生まれ、その波間に、その砂浜に自由に人生を描いて、やがて次の波でまた神さまのもとに帰っていく・・・老いて死に・・・でもまた新しく生まれ変わって、新しく時代を吸収して、愛に見守られながら育ち、人生を愛し、自分を愛し、家族を愛し、また老いて死ぬ・・・」

 

わたしは、観自在菩薩さまをはじめ、般若心経を編集した弟子の方々が、その素晴らしい「永遠の繰り返し」という仕組みに気づき、それを繰り返す「波の音」として般若心経に想いを託し、そのように表現したのではないかと思います。


永遠の命を持って、生まれ変わりながら世界を眺め、そこで生きている。その幸せ。その安心感。その驚き。その嬉しさ。


そのようなことを、般若心経に、羯諦羯諦の波の音に込めたのだと思います。
そうであれば、そのマントラで、三世諸仏がこのうえない幸せな境地にたどり着いた、ということもうなづける気がするのです。

わたしの想い

わたし個人的には、意味がよくわからない「彼岸に行く」ことよりも、この人生を、できるなら楽しんで生きること、安心して生きること、のほうが大切な気がします。
般若心経は、単に悟りの理論だけを述べているような経典ではないと思います。すべてが無いとか、言葉遊びで結局何言っているのかわからないような、そんな翻訳というか解釈はしたくありませんでした。

般若心経は、何を教えてくれて、何を伝えているのか?マントラを唱えることでどう私たちが救われるのか?その理由は?

そのような自分自身への問いの答えを、ここに書いたつもりです。

わたしは神さまが与えてくれた自由を、わたしの個性を、楽しんでこれからの人生を生きて行きたい。
でも実際、生きていくうえで、苦しみや悩みは尽きません。無くなりません。それも私たちの一部だから。
そんな時、わたしはあの波の音に思いをはせます。

 

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」

 

あなたにも本当の安らぎと幸せが
この波の音とともに訪れますように。

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。