パリでテロがあった。


各地で追悼の声が上がり、ニュースで取り上げられ、個人ではfacebookでプロフィールをトリコロールで彩ったり。。


Pray for Paris


そんな中、興味深い記事があった。by どこかの記者


自分は決してFacebookのプロフィールをトリコロールには染めないというもの。

その理由を端的に言えば、

先日あったより多くの犠牲者が出たアンカラでのテロの時にはこれほどの反響はなかった、

もちろん今回も追悼の意を示したいが、フランスの犠牲者が出たときはトリコロールで彩って、トルコの犠牲者に赤と星と月で彩らないのは差別である、

テロの発生がそもそもそういった差別意識や相手を理解しない心に起因しているから、

自分はトリコロールには彩らない、

個人個人考え方があるのは分かるが、

トルコでもシリアでも、ロシアでもイラクでも、テロでも空爆でも、犠牲者に同じだけの追悼の意を表したい、


…というもの


多くの共感(いいね!)を得ていた。



とても考えさせられる記事だ。



だが、個人的にはこの記事にもどこか違和感を覚える。


追悼の「意」を示すか示さないかはともかくも、人を悼む心や感情をコントロール出来るものではないだろう、

むしろ、そういった感情は心の底から涌き出てくるものであり、比較で有無を語るべきものではない。


各国に同じ追悼の意を示したいというのは、よほどそれぞれと関わりが浅くて、もしくは自分に強く影響があるのに、普段それを感じていないから、

事件を一歩引いて客観視し、自分に関わることとして捉えきれていないからではないのか。


成人君主ならともかく、誰だって、普通の人間なら、


何かの事故で犠牲者が出たとき、家族が死ぬか、赤の他人が死ぬかで、そのショックの大きさは異なるだろう。


それは差別ではなく頻度と親密度の差異によるものだ。


もちろん、対テロの熱に浮かされお祭りムードでトリコロールに染める人も多いだろう


フランスを支持することが、全世界の平和を支持することともイコールではないだろう


じゃあ、トリコロールを否定するお前はイスラム国を支持するのか、なんて極論を持ち出す素っ頓狂な輩だっている


別に自分だってそこら中をトリコロールに染めたいだなんて微塵も思わない



でも個々の事件に対して、人それぞれ感情の度合いに違いがあるのは当たり前で、またその後の対応に差があるのはおかしなことではない。


そういった事実を受け入れ、普段密接なかかわり合いがない国々へも理解を深めようということがポイントなら分かるけど、


別にわざわざトリコロールに彩ることをを否定する必要はない


すべての国旗に彩ったっていい


相手を理解できていない状況でどうやって深い追悼の意を示すことが出来ると言うのか?



また、もうひとつの違和感は不作為はテロや戦争の回避に何一つ資さない、というところ


この人は記者だから、記事にすること自体は作為的であるのかも知れない。


しかし、タイミング的にも内容的にも海外で話題の論点をパクっただけで、義憤からの記事とはとても思えない。



海外に住んでいると、つくづく日本にいた頃の自分は平和ボケしていたなと認識する。


悪意の前には予防することでしかその身は守れない。


君子危うきに近寄らず


危うきが迫るなら、家族に友人に危機が及ぶ前に、徒党を組み、武力を均衡させ、最悪の場合は敵を殲滅する、


結局、それが身を守る手段でそれがなければ生き残っていけない。



自分はフランスを支持する。支持していると伝えたい。


より親密だから。


共にテロを撲滅させたい。


でも、もちろん自分がそれに強く能動的に関わるつもりがあるわけではなく、やはりそれも不作為で、何かを変えることができるわけではない。


結局、人を批判する資格はない。


例えば、誰か一人の命と引き換えに世界が救えるとして、自分は誰が名乗り出るのを待っているだけの男だ。
書作品や書道用品が至るところに並ぶ街で、北京中心部にあって数少ない、趣の残っているところ


古くは科挙に落ちた人間が、帰りの旅費を捻出するため、墨や硯、筆などを売り始めたことが、この賑わいの始まりらしい


普通の中国人、観光客にはあまり縁のない場所だろうが、


幼き頃、各々書道をかじった我々夫婦には、何とも言えない懐かしさと落ち着きをもたらしてくれる



そんな落ち着いた雰囲気とは裏腹に、こじんまりしたお店にも、


一千万円、二千万円。。


10個はならんでるから、この一列だけで2億円!?


…などと、目を疑いたくなる値段の書画が無造作に展示されている



この文人墨客が集う街に、何人かの書道家がその場で作品を書いているアトリエ?があった


たいていは大きなサイズの作品で、なかなか家に飾る気になれないのだが、


手頃なサイズで気に入った書を見つけたので、購入した


そのまま販売員を額縁屋さんに連れていき、額縁をオーダーメイド



作品の価値は値段じゃないけど、予定通り出費を一万円くらいで収められたので、良い買い物が出来た



「観海聴濤」



海を観る 波を聴く



一応、硯や他の有名な書など、昔からよく使われている言葉らしい


家に帰って意味を調べてみたけど、いまいちピンと来ない



一方でこんなエピソードを発見


オバマ大統領が2009年に訪中したときに、袁偉という、有名な軍事歴史学者兼書道家からこの書を贈られたという



奥観海(オバマ)が、胡錦濤(こきんとう)の話を「聴く」



この一見皮肉とも取れる際どい冗談を、オバマ大統領も喜んだそうだ



高名な書道家の書いた冗談よりも、「北京に於いて」書かれたこの作品の方が自分には価値がある



そして、いずれ自分なりにしっくりくるこの言葉の解釈が生まれるかも知れない



そう考えると、意味が分からないまま、飾っておくのもいい





北京に来てもう三度目の冬。
今年はもう初冠雪で一段と寒さが厳しい。


たった2年しか経っていないけど、久しぶりに日記を見返すと懐かしくも青臭い自分がいる。


仕事やプライベート、それなりに取り巻く環境に変化は起こったけど、

自分はこの地でどれだけ成長出来たのだろうか。


仕事は全力でやってきたし、たまの休みには小金持ち気分でリゾートに旅行も出来た。


でも、自己を高めるために何をしただろう。


空気が汚いから

あまり親日な国じゃないから

家族がいるから

仕事が大変だから


言い訳だけがどんどん上手になっていく。。


他人との比較や過去の自分との比較ばかりが物事を判断する尺度になってしまっている。


本当はそんなこと、幸せの尺度ではないと分かってるのに、それをせずにはいられない。


そんな自分を受け入れて、今何をなすべきかを考え直す心持ちになったのは、少しは成長したからだろーか。