『アイデンティティ(Identity)』訳すと、『自己同一性』。この訳を理解できるだろうか?きっと難しいはずだ。『うんこ』と『うんち』の違いを理解するくらい難しいはずだ。そんな概念は、今の日本人にはないからだ。作り忘れられたものだからだ。先人達は本当に無責任だ。

『アイデンティティ』を理解できない僕らが『うんこ』だとしたら、それを作り忘れた先人達は『うんち』さ。どこかの国の民族は、“肩が凝らない”らしい。それは、彼らの使う言語に“肩凝り”を意味する言葉がないからだ。もっと分かりやすい例で言えば、日本人は、LとRの発音を聞き取る耳がない。それと同じことだ。だから日本人は『アイデンティティ』を頭で理解できない。

 猿渡屋さんも例外なくその1人だった。本能で『アイデンティティ』を『自己防衛』したいのに、概念がないから道筋を見失う。唯一の救いはそれに気づいているという部分のみであろう。

 猿渡屋さんが下等生物を蔑視するのは、アイデンティティの“本能”と“無理解”の狭間でさ迷っているからだ。簡単に言えば、その狭間にすら気付けない下等生物を、群れを為す生物をゴミ箱に捨てたいのだ。鼻をつまみながらな。

 「おれは社会には適応してない。社会人としてやっていく自信がない」

猿渡屋さんは無表情で語り始めた。友人は返した。

「お前には、能力がある。公務員になって安定した生活をしたり、銀行に勤めて収入を得ることだって、土日は趣味の絵画に費やす時間だってあるよ」

猿渡屋さんは、その思考とは裏腹に、能力を持っていた。

 勉強やスポーツなんて、誰でもやればできるもの(経験を積めばあるレベルにはなれる)事象に、トント興味がなかった。彼が興味を向けるのは、『自己防衛』それだけだった。

 この世のあらゆる生物は、群れを為す。猿渡屋さんは、当然のように群れが嫌いだった。小学校の遠足では、常に車道を歩き、中学校の卒業式では1人ブラジル国歌を斉唱した。

 それは一重に『自己防衛』のためだった。決して他人に侵されてはならないエリアを彼は全身全霊をかけて守っていた。そんな宿命、本当は誰もが背負っているのに…。

 本能的には背負っていて、それに気づいているはずなのに、いつの時代にも日本人は『自己防衛』をできなかった。何故か?日本に言語をもたらした先人達が、作り忘れた概念だったからだ。

 電車から降りてきた灰色の髪、ロングコートを着たダンディな男性。

 彼の名前は、“猿渡屋政太郎次”(サルワタリヤ マサタロウジ)。古い家に生を受け、江戸時代に生まれた曾祖父にこの名を授かった。だが、意外なことに通称は、マサタロウジでも、マサでも、マサタロウでもない。“猿渡屋さん”だ。

猿渡屋(通称:猿渡屋さん)は、人の多い場所が好きだった。人とすれ違う度に、「この女は、今から援交して金もらえるからウキウキ速足で歩くんだろう」とか「この人は、今まさに銀行強盗してきたばかりで内心ドキドキでベンチに座ってるんだろう」とか、そんな妄想を繰り返した。

 彼は、人間の根底にある“欲”に強い関心があった。
人は、不思議なことに愛着を持った対象を美化する。つまり、関心=愛着=美化のレールが脳内に埋め込まれている。

簡単に言ってしまえば、彼は“欲”を美化する人間だった。人間の持つ欲こそが美しいと。こんな破壊的思考が人格を崩壊させるのは当然さ。

 彼は、自分の思考に寸分の間違いもないと確信してないと思っていた。そして、その思考を他人に伝えたいと思っていた。これは、猿渡屋さんが大学時代の友人を行きつけでもないけど、自宅に近い、もつ鍋屋に行った時の話だ…