2017/02/16 | 睡蓮のひとりごと(仮)

睡蓮のひとりごと(仮)

ひとりごと、むにゃむにゃ

ライブの前後、いろいろ考えて書いては消したり。
ただ、以前ほど頭が回らなくなってしまったので、あ、いいやっ!って思ったら、あっさりしました。

そしたら、周りも疲れていたのかなあとか気づいたり。自分が疲れているとき、周りの疲れに気づけなかったりしますが、こと会社なんかにいると、派遣程度の私が疲れているということは、周りも疲れているかもしれないな、と、思ったり。

いいとか悪いとかじゃなくて、どうしようもないことが重なるときは、重なるのです。神様仏様とか心がけとか罰当たりとか関係なく、重なるときは重なる。

あんまりにもいっぱいになると忘れるけど、お空の雲が重くてどうしようもないときは、それが去るのを待つしかないのだ。


それはそうと、自分の根本の部分を見直す機会にもなり。正しい、は、絶対じゃないし、いくつも答えはあるし、答えを出さずに待つこともありだなと思ったりして。

子供の頃、周りの大人が正しいとか、間違ってないからそのままでいいとか、いろいろ指示を受けるのですが。確かに正しいんだが正しい通りにして、じゃあ、幸せ?っていうのが、今思うこと。

例えば、相手の言ったこと一字一句間違わずに取り上げたとして、それ、間違ってますよね、って相手を攻撃しても、恐らくはかなりの割合で喧嘩になる。それが人づてで解釈が変わっていた場合はなおさら。

間違ってないから、叩かれたって、蹴られたって痛くないかって言ったらね、痛いんですよ。そこで、やっぱり間違ってないからとかそんな話になると、痛いのを極限まで我慢してね、我慢する理屈を考えるようになるんです。

宗教に近いな。この痛みを耐えるのは正しいから修行とか苦行かもしれないとか、そんなわけないでしょ。

あんまり核心をつかないように書いているからほとんどの人がわからないとは思うのですが、30前後くらいまでなんだかそんな歪んだ思考で来ていて、ふと手放したら周りがみえた。

おいしいもんでも食べなって言われても寄り道できずに帰ったりしてたけど、いこっ!って勢いで行ったお昼のグリーンカレーが美味しかったり。

おそらくきっと子供のときから必要なのは、正しいアドバイスではなくて、いいときも悪いときも、近くにいて、あー、そーだねー、でさ、…、みたいな、そんなかんじなのかもしれないなって。本当に自分が嫌なときははっきり言って、楽しいときは楽しいって言って。あとは、そうなんだねーって、そうそうっ!って好きなこと話してればいい。

本当に問題に責任をとるのは、親でも家族でもなくて自分ですから。人生そのものに責任をとるのは、最後は自分なのです。

アドバイスする人に限って、うまくいかなかったときはあなたのやり方が悪かったからとか、ちゃんと言うこと聞かなかったからとか、本気でキレちゃうことが多いけど、その場合、過去は過去として処理されてしまうことが多い。自分は痛みや傷だけ残って、相手は忘れて次のアドバイスを考えるという。

自分の実際残っている傷をみて、改めてそう思います。

結果これも自分の全責任であるのは間違いないんだけど、もう少し自分が落ちついたときに、そんな私でも、あー、そーだねー、でさ…って感じで、なんとなく、一緒にいてくれる人がいてくれたらいいなってね。

もうしばらくは、かかりそうだけど。