東京に来て約9か月。
最近、よく考えるようになりました。
幸せとは一体何なんやろうか、と。
僕の家族、そして大切な友人たちは大阪にいる。
僕は今、こうして東京にいる。
オレは何をしてるんやろうか、と。
そして、ふと思った。
ああ、こうして心が揺れ動くってことが幸せなんやないか、って。
☆☆☆
10月の初め、週末の3連休を利用して、僕の両親が上京してきました。
その予定に合わせ、僕も連休をとりました。
偶然にも全く同じ日程で、
僕の高校時代のバスケ部友だちも東京へ遊びに来ました。
土曜日、その友人と一緒に飲みました。
日曜日、朝から銀座のホテルへ両親を迎えに行き、恵比寿の僕のワンルームマンションへ招待しました。そのマンションの前で僕は父親と、次に母親と並んで記念撮影をしました。
狭い部屋で、僕が作ったゴーヤチャンプルーと豚汁を3人で一緒に食べました。僕が料理する姿を、母親がデジカメで撮影していました。みんな腹いっぱい食べました。
昼食後、3人で浅草に行きました。4年前に大病をわずらった父親の、歩くスピードの遅さに驚きました。
夜、両親の古くからの友人である夫婦と銀座で待ち合わせ、5人で中華料理を食べました。みんな腹いっぱい食べました。
その後、僕はバスケ部の友人と渋谷で合流し、コンパに行きました。楽しい楽しい時間でした。
月曜日、両親も友人も大阪へ帰っていきました。
両親を、そして友人を見送りました。
僕の心は激しく動きました。
自分でも意外でした。
その時、気づきました。
ボクは東京って街に来てからずっと背伸びして、
緊張してやってきたんや、と。
そして、気づきました。
ボクはこんなにも大切なものを持っている、と。
☆☆☆
少し話がずれてしまいました。
何が言いたかったんやろか。
えっとつまり、「動く」ってことが素晴らしいんやないか、と。
いや、そうじゃない。変わらぬ愛ってのが素晴らしいんだって主張する人もいるでしょう。安定の中にこそ、幸せがある、と。
でも、どうでしょう。
人間の命が永遠でないかぎり、愛する2人にも「死」という別れの時がやってきます。
つまり、安定した生活というのは実は、別れという激動のときを前提にしかなりたたない。
一見、穏やかな生活というのは、やがて訪れる変化への助走段階。
それが穏やかな日々であればあるほど、別れは残された者にとって激震以外のなにものでもないでしょう。
話がどんどんずれていきます。
要するに、人と人が真剣に向き合い、深く付き合うとき、不変的なものなどありえない。
それは人が物事に真剣に向き合うときも同じことでしょう。
自分と向き合っても同じこと。
そして、思いが強ければ強いほど、結果、心はその分、強く動く。
自分が動かないと、心は動かない。
結果がプラスであれ、マイナスであれ、心が動いたんなら幸せ。
もし「幸せ」の大きさを数値化するなら、心の動きのふり幅、その絶対値こそが幸せの大きさそのものなんじゃないか。
両親を、そして友人を見送った帰り道、そんなことを考えていました。
☆☆☆
そして今、僕は自分自身に問いかけます。
ボクはこの東京に、心動かすものを作れただろうか、と。
もっとシンプルに言えば、ボクは今、動けているだろうか、と。
分かりません。
年末、久しぶりに大阪でゆっくりできると思います。
大阪から東京を思うとき、また何かが見えそうな、
今はそんな気がしています。
(2006年11月)