Part.5 第3章 接近(1)
ルンルンが淑女になりたがること以上に難しいことって、何があるだろう?
「モーション、こっちがいい、それかこっち?それともこっちにしようか?」 ブティックの中で、ルンルンは洋服を体に当てて意見を求める。モーションは早朝から立て続けの電話攻撃を受け、アドバイザーとして担ぎ出されていた。
「ああ、こっち」
「これは今日着てきた服じゃん」 ルンルンの顔が少し陰る。 「モーション、まだ半分寝てんの?朝早いから頭がお留守になってうわの空なんでしょ」
「うーん……」 モーションは気がとがめて苦笑し、急いで話題を変えて大真面目に告げる。 「シャオホン、淑女を装うのに肝心なのは洋服じゃないんだから」
「じゃあ、何?」
「立ち居振る舞い」 モーションは例を挙げて話す。 「例えば、普段どんな音楽を聴くのが好きかと訊かれたら、まかり間違ってもヘヴィメタなんて答えちゃダメだからね」
「私、ロックは聴かないもん」 ルンルンは嬉々として言う。 「私のお気に入りはリッチー・レンとアーニウの 《浪花一朵朵(花のような白い波)》 だし」
今度はモーションの顔が少し陰る番だった。脳裏に花柄のパンツを穿いた3人の男がギターを抱えて馬鹿笑いしながら、ビキニ姿の若い娘をビーチ中追っかけ回す画像が浮かび上がった。加えて、耳元ではルンルンが興奮して解説をつけている。 「特に‘美女がお婆ちゃんになる’って歌詞は、将来に対する私の期待をモロ表してる……」
「……2人でいる時に絶対、音楽を論じちゃダメ」 モーションはきっぱり言う。 「映画について話したら?夜、映画を観る予定じゃなかったっけ?それだって淑女の品位と気質を見せつけられるわよ」
「映画?」 ルンルンの瞳が輝く。 「私は 《チャイニーズ・オデッセイ》 が好き。ロー・カーインがイケメンな上に、話すことが超哲学的なんだから。特にあのセリフ‘人はその母から生まれ、悪魔はその母から生まれる’の部分には、倫理、愛情、医学と宗教が含まれてて、つまりは‘生きとし生けるものみな平等’ってことなんだよね。まったく最高の解釈……」
「……シャオホン」 モーションは困難を極めて言う。 「今夜は何もしゃべんないのが一番だと思う」
ようやくルンルンが解放してくれたのは、午後2時過ぎだった。
モーションは家に帰って眠りに就き、目覚めるや否や暗室に入り込む。再び出て来た頃には、空はすでに真っ暗。壁の時計を見れば、なんと7時半だった。
空腹でたまらず冷蔵庫を開けてみるが、何も食べるものがない。モーションは財布と鍵をつかんでスーパーへ行く準備をする。
階段を下りて、花壇を横切ると、モーションの足が不意に止まり、上目を使う。
真正面の薄暗い街灯の下、彼がそこに立っていた。立ちこめる煙越しに見える目は無言で彼女に固定されている。
イーチェン!
彼は遠くに立っていたが、やおら近づいて来る。今日の彼はとてもカジュアルな装いで、シンプルなシャツとパンツ姿だが、どうやっても普通の人とは異なる知性をかもし出してしまう。かつては彼を惚れ惚れと眺めて、よく言ったものだった。 「イーチェン、どうしてあなたは何を着ても素敵なの?」 彼女への返答はイーチェンのムッとした冷たい目だった。
かつて!また‘かつて’か!チャオ・モーション、もう少し意地を見せなさい!もう思い出しちゃダメ!
イーチェンは煙草をもみ消し、直立不動の彼女のそばまでやって来る。
「一緒に歩かないか?」
「……ええ」
沈黙が2人の間に広がる中、長い道のりを歩く。イーチェンは依然として口を開こうとしない。モーションは堪えきれずに尋ねる。 「どこへ行くの?」
「着いた」
バス停?私たち、バスに乗るの?
「小銭あるか?」
「うん」 モーションは財布からいくつか小銭を取り出し、手の上に並べる。
「1つもらうよ」 イーチェンは彼女の広げた手から小銭を1枚取り上げ、その指先がふと手のひらをかすめる。
モーションはぎょっとして、慌てて手を引っ込めるが、彼は何も感じなかったらしい。体を横に向け、目はバスが来る方向を見つめる。
「乗ろう」
彼女は何も尋ねる閑もないまま、彼の後について乗車する。土曜日のバスは当然の如くすし詰め状態で、2、3人の乗客が彼らを隔てている。呼吸が苦しくなり、足を踏み出すのも難しい。バスは停留所を8、9つ過ぎた後、止まった。突然、イーチェンが手を伸ばして彼女を引きずり出すが、降りた途端にまた手を放して、1人で前を歩く。
モーションは周りの見慣れない景色をじろじろ眺めている。ずらりと立ち並ぶ高層ビル。 「ここはどこ?」
イーチェンはにわかに足を止めて振り返る。 「見覚えない?」
覚えてなきゃいけなかったの?A市はとっても大きいし、隅から隅まで全部の場所を訪れたわけではない。彼はどうしてそんな不愉快そうな顔をするの?まるで私が凶悪な罪かなんか犯したみたい。
明らかに途方に暮れる彼女の表情を見て、イーチェンの目がだんだん気落ちする。
「もういい!」
彼は冷たく一言吐き捨てると、さっと向き直り、歩くスピードをどんどん上げる。
モーションは、目の前に古色蒼然とした校門が現れるまでその理由がわからなかった。
ここは、まさかC大?
じゃあ、この通りって。彼女は歩いて来たばかりのにぎやかな大通りを衝撃をもって眺める。本当に老北通り?
私とイーチェンが数えきれないほど歩いて回った老北通りなの?
ウソでしょ!
あの活気に満ちた夜店は?あの呼び売りをしていた露天商は?大通りの両側にあった安くて美味しい色々なメニューの軽食屋さん、今はどこに行ったの?
「帰国してから見に来てない?」 イーチェンは落ち着きを取り戻し、冷静な声で尋ねる。
「ええ、私……」 来たくなかったわけじゃなく、ただ…… 「仕事がとても忙しくて」 こんな理由、自分ですら馬鹿げていると思いつつ、彼女はもごもご言う。
イーチェンは彼女をちらりと見て淡々と言う。 「何も言わなくていい。わかってるから」
彼に何がわかるの?私はわからない。
彼らはC大に入って行く。100年を誇る伝統校はあまり変わっていなかったので、モーションはそこに身を置き、さながら自らの古い夢の中を歩いているような気がした。あの大きな木々、あの一見して古びた学生寮、あの朗らかに笑いながら彼女のそばを歩いて行く学生たち……やるせない、酸っぱい気持ちがモーションの胸にあふれ返る。おぼろげな記憶、私ったら、それだけ長い間離れていたのね。
「あら!」 モーションは道の曲がり角にある小さな食料雑貨店を指さす。 「この店、まだあったんだ。今でもあの老夫婦が営んでいるのかしら」
「いや」 イーチェンが言う。 「俺が卒業する前に替わった」
「そう」 モーションは小さな声で返事をし、頭を上げて笑顔で言う。 「食べる物を買ってくるわね。もう飢え死にしそう」
小さな店は若い女店主に代替わりしており、子供の相手をする傍ら、2人に挨拶する。彼女はパンとコーラを購入し、イーチェンもビール1缶を取って、彼が支払う。モーションはかつてどちらが支払うかでよく言い争って譲らなかったことを思い出した。当時の私は、男の誇りと尊厳について理解するにはあまりにも若すぎた。イーチェンは私と一緒にいてさぞかし疲れたでしょうね!
「いつからお酒を飲み始めたの?」 最初は気軽に訊いたのだが、言い終えてから夕べの酒気を帯びた激しいキスを思い出し、モーションは窮屈そうにそっぽを向く。
「この数年」 彼は長いこと沈黙した後、淡々と答える。
そうなんだ、この数年。
「まあ、どこか座ろうか」
8時頃、グラウンドでは夜間に運動している人がまだ大勢いる。ほとんどが若い学生だが、周囲を歩いている年配の教授も若干いた。
彼らはグラウンドの端に座り、モーションが笑顔で言う。 「このグラウンドには何より苦い想い出があるわ」
イーチェンは微かに笑みを浮かべる。 「800メートル?」
「うん」 モーションがとても照れ臭げに認める。 「私の800メートルの最高タイムは4分10秒。あの時、あなたが信じられないといった様子で言った言葉をまだ覚えて……」
突然、彼女は言葉を止める。イーチェンの深い瞳が彼女を見つめている。 「何と言った?」
それはね、チャオ・モーション、君の足はこんなに遅いのに、どうして僕は君に追いつかれちゃったんだろうな? よ。
「……あらっ、あなたの学部のチョウ教授じゃない?」 モーションはそう遠くない場所を歩いている老体を指す。
イーチェンは視線を移して見て取ると、うなずいて立ち上がる。 「ちょっと行ってくる」
モーションは彼が歩いて行くのを見る。チョウ教授は彼を見ると、とても嬉しそうな様子になり、いくつか言葉を交わして、満足げに彼の肩を叩く。
この老教授の髪の毛はますます少なくなっている!
取りも直さず、彼女が法学部のこの名教授を知っている理由は、あくまでもイーチェンの関係者だからにすぎない。
当時、イーチェンは学業と家庭教師の掛け持ちで多忙を極め、カノジョであってもなかなか顔を見られなかった。そこで、モーションは彼と一緒の時間をもっと持ちたくて、自分の授業がない時は彼の学部の講義にもぐり込んでいた。このチョウ教授の刑法学に関しては、学期の最初から最後までまるまる聴講したが、今となってもやはり、刑法学に於いて最も基本的な「推定無罪」すらさっぱりわからない。それに引き換えイーチェンは、彼女に無理やり高等数学の授業を何限か聴講させられたのに、学期末に彼女が復習する際には、なんと手解きまでもできる始末。
イーチェンが何を言ったか知らないが、チョウ教授は意外にも彼女のほうを見る。ニコニコ笑って彼女に向かって少しうなずいてから、ようやく歩いて行く。
イーチェンが戻って来ると、モーションは好奇心から訊く。 「何をしゃべってたの?」
「友達とちょっと立ち寄ったと」 イーチェンは不思議そうに彼女を見る。 「チョウ教授はまだ君を覚えてたよ」
「そうなの?」 モーションはもごもご言う。「たぶん私の印象が強烈だったのね」
彼女はこの教授の講義で失態を演じたことがあった。
チョウ教授は講義の際、出席簿に目を通したことがなく、質問に答えさせるのもランダムに指し示す。ある時、不幸にもモーションが指名された。彼女はいまだにその時の質問を覚えている。 「甲乙丙丁、この4名をどのように裁くべきと思うかね?」
彼女はちんぷんかんぷんだ。甲乙丙丁って何?やっぱ戊己庚辛って続ける?
机の下でイーチェンの服を引っ張るが、思いもよらず彼は素気ない物言いで返答する。 「聞いてなかった」
えっ!そうだった。私たちはちょっと前に口喧嘩をしていて、イーチェンは私におかんむりなんだった。だからと言って人を見殺しにするなんて、肝っ玉が小っちゃすぎる。
結果、彼女はおどおどして、思わず口をついて出た。 「全員牢屋にぶち込みます」
教室全体が一瞬静寂に包まれた後、一斉にどっと笑い出し、前方の男子学生が大声で叫ぶ。 「教授、彼女はうちの学部の学生じゃありません」
「えっ?」 チョウ教授は感激して言う。 「君は私が教える刑法に興味があるのかい?」
学生はまたひとしきり大笑いして、はやし立てる。 「教授、あの子は彼氏にくっ付いて授業を受けに来たんです!」
老教授はウィットに富んだ頭の持ち主で、意外なことに興味津々の様子で質問する。 「誰の彼女なんだね?」 それは遺失物を受け取りに来させる口調そっくりだ。
イーチェンは腹をくくって立ち上がり、醜態をさらした。 「僕です」
チョウ教授は当然ホー・イーチェンを知っているので、天性のユーモア精神を発揮して彼に心憎い忠告を与える。 「ホー君、自分だけ勉強してるようじゃダメだからな。家庭教育もとても重要なんだよ。れっきとした法学部の優等生のカノジョが法の知識に欠けるとあっては、社会に出た後、立つ瀬がないぞ」
モーションは、いまだにあの時教室で湧き上がった笑い声を覚えている。
イーチェンがそっと笑い出す。 「確かに印象が強烈だ」
モーションはぼうっと彼を見る。笑ってるの?やっと仏頂面じゃなくなったわね。私と初めて会ったみたいに接してくれた!
「ん……」 彼女は不意に顔をよそへ向けて感情を隠す。彼のほうを見ないでぎこちなく話す。 「あなたが私を見殺しにしたからでしょ!」
彼女はまだこの事を根に持っていたのか?イーチェンの胸に万感こもごも至る。しかも少し笑える。本当に自分は聞いていなかった。喧嘩中だろうと俺が冷静で理性的な人間だと、彼女は思っている。彼女とギクシャクしている状況で、授業に集中できるわけないだろ?
もしも本当に冷静で理性的だったら、今ここに立ってはいないだろうし、彼女と一緒にいないだろう。
イーチェンは鬱々とした気分でため息を吐く。 「遅くなった。送って行こう」
またバスに乗って、階下に戻り、モーションは足を止めて言う。 「着いたわ」
「うん」 彼も止まる。
「じゃあ、バイバイ」
「さよなら」
モーションが2歩歩いて振り返ると、彼はまだ街灯の下に立っている。 「あなた?」
彼の目は彼女を飛び越え遠い所を見つめている。しゃべりかけてやめ、長いこと経ってやっと口を開く。 「昨日は、悪かった」
「……いいの」 モーションは心許なげに言う。 「昨日のあなたは酔ってたんですもの」
「そうか?」 イーチェンは皮肉めいた調子で言ってから、ちょっと言葉を途切らせる。にわかに彼は頭を下げ、冷たい唇が彼女の唇に触れたかと思うと、すぐに離れる。深く謎めいた視線が彼女に絡みつき、ボソボソと言う。 「モーション、俺はしらふだ」
あれ以来ずっと、
しらふだった。そして、こんなにも落ちぶれる。