Part.6 第3章 接近(2)
「今日はうわの空だな」 難解な案件を議論している中、シアン・ホンがいきなり一言物申す。
イーチェンは人ごとのように視線を上げて彼を見る。 「俺の提案は悪くないと思うが」
「ああ、悪くない」 悪くないというより、まったくもって素晴らしい。 「だが、それでも心ここにあらずだ」
「オーケー」 イーチェンは手に持ったペンを投げ捨てる。 「何が聞きたい?」
これほど平常心を失っているイーチェンなどめったにお目にかかれないので、シアン・ホンは笑い出す。 「愛しい後輩チャオ君が帰って来たか?」
イーチェンは眉を上げる。 「何で知ってる?」 こいつ、こんなにわかりやすい男だったか?
「先日、下で見かけた」 シアン・ホンは彼の疑念を解く。 「すっかり……変わったように見えたが」
そう、すっかりな。イーチェンは言葉にしない。
その時、ユエンさんがドアを開けて入って来てわめき出す。 「おい、共同さんから今夜、会食のお誘いだ。お前らも必ず出ろよ」
共同法律事務所もユエン・シアン・ホー法律事務所同様、A市の四大法律事務所の一つに数えられており、法廷での真っ向勝負は避けられないが、プライベートではいい関係を保っていた。この度はユエンさんが彼らに少しばかり力を貸したことから、得月楼に宴席を設けて接待してくれたのだ。
裏を返せば、共同の連中も腹に一物持っていた。共同の薔薇シュウ・ピーリーがユエン・シアン・ホーのホー・イーチェンに関心を寄せていることは周知の事実であり、2人を一堂に会せば、またとない見世物を鑑賞できるに違いないと踏んでいるのは明らか。ピーリーは攻撃を得意とし、片やホー・イーチェンの守りは従来より一分の隙もない。今日の晩餐はきっと賑やかで面白くなるに違いない。ユエンさんはすでに期待し始めていた。
得月楼は市内で一番の目抜き通りに位置する。夜の帳が下りてネオンがともる頃には、酒も3回りを越えていた。ユエンさんと共同の弁護士たちはいずれ劣らぬ口達者で、ワイワイガヤガヤ非常にやかましい。シアン・ホンは窓際に座って、耳で彼らの与太話を聞きつつ、目は無意識に窓の外に向けていた。
都会の夜のネオンライトの下、広々とした路上は往来が盛んで、多くの人々が行き交っている。
ちょっと待て。あれは……
「シアンさん、話もしないで何を見てるんだ?」 リー弁護士が顔を近づけ、シアン・ホンの視線を追って見下ろす。大通りの向こう側にカメラを持って何かを撮影している女がいる。長くも短くもない髪に、ゆったりしたライトブルーのシャツとジーンズ姿で、長短まちまちなカメラを2、3台首からぶら下げている。
「君の好みのタイプかね?」 リー弁護士は興味津々に尋ねる。容貌ははっきり見えないが、学生っぽい雰囲気だ。
僕の好みではありませんよ。シアン・ホンが振り返って見ると、シュウ小町が粘り強くイーチェンを追い詰めている最中で、イーチェンは端然として丁寧に受け答えている。もしも、ここにモーションを加えたら……きっと面白くなるだろう!
「イーチェン」 シアン・ホンは彼の注意を引きつけてから、窓の外を指す。
それに反応してホー・イーチェンのみならず、全員一様に窓の外を見る。しかし、何を見てるんだ?みんなして何が何だかわからない。
イーチェンは人だかりの中でカメラアングルを探っているチャオ・モーションを一目で見て取り、手にしていたグラスを置く。 「ちょっと失礼」
落ち着いた構えのシアン・ホン以外、残り全員がガラス窓にへばりつくようにして外を眺める。ホー・イーチェンの長身の体が素早く道路を横切り、見知らぬ女から数歩離れた所で止まったかと思うと、邪魔しないようただ静かに見守っている。その女は撮影を終えて振り返るまで、まったく気づいていない様子だ――あ!すごく惜しい!彼女はこちらに背を向けていて、表情がはっきり見えない。その後、2人はいくつか言葉を交わしている。
その後……
一同の目の玉がもう少しで飛び出そうになった――ホー・イーチェン!彼、彼、彼が……
驚いたことに、彼が人の手を強く握りしめているではないか?
ホー・イーチェンともあろう男が!これまで一貫して女につれない態度だったホー・イーチェンがなんとこれほど激しく立ち振る舞うとは。嘘だろ!
誰もが以心伝心でこの場の紅一点に同情の目を向ける。シュウ小町の表情はすでに醜い。
ああ、そうなんだ!ホー・イーチェンが女と一線を画しているのは、根っからの無愛想のせいだと思っていた。まさか必要とあらば、こんなにも激しく燃え上がれるのか。
これは実に女性のプライドに大きな打撃を与えた!
普段はシュウ・ピーリーの弁才にひどくムカついていたが、曲がりなりにも同じ事務所の仲間だ。とにもかくにも同僚のよしみで、でっぷりしたジャン弁護士が口を開いて敵情視察する。 「シアン君、彼女は誰だい?」
シアン・ホンの表情はやや釈然としない。 「なぜ僕に訊くんです?それこそイーチェンに訊いたらいかがです」
ジャン弁護士は謹んでお断り申し上げる。 「私ごときがホー・イーチェンに口を割らせるなんぞ、望み薄だ」
シアン・ホンは少し笑って言う。 「やつのジャケットはまだここにあるから、どのみち取りに戻るはずですよ」
案の定、しばらくしてイーチェンが戻って来て、とてもすまなそうに言う。 「リーさん、用があるのでお先に失礼します」 リーさんがどうやら本日の宴席のホストらしい。
リーさんがまだ何も言わないうちに、シアン・ホンが先に口を開く。 「さっさと帰ったりしたら、リーさんに失礼だぞ。チャオ・モーションを呼ぶほうがいいんじゃないか。俺も何年と会ってないしな」 振り向いてリーさんに尋ねる。 「1人増えるけど構わないですよね?」
リーさんが慌ててうなずく。 「連れて来い、連れて来い」
イーチェンは考え込む。
シュウ・ピーリーは悲しみを内に秘めて口を開く。 「ホー大先生ともあろうお方が人目をはばかる交際とは。禁断の恋なのかしら?」
モーションは依然として道向かいの歩道にぼうっと立ったまま、自分とイーチェンはいったいどんな関係なんだろうと考える。友達といっても友達らしくなく、恋人といっても恋人らしくない……考えがまとまらないうちに携帯電話が鳴った。イーチェンからだ。
「そっちへ行けない……」
ああ、よかった。モーションはほっと息をついた。
「……君が来い!」
電話は切れ、モーションは言葉を返す機会すらなかった。向かいの得月楼を見てから荷物を片づけ、道路を渡る。
イーチェンが入口で待ってくれていた。モーションは躊躇して言う。 「私が入るのはあまりよくないんじゃ」
イーチェンは軽々に答える。 「同業者の集まりだ、かまわない」
だけど、どういう立ち位置で私は登場すればいい?
この言葉を彼女は飲み込んだ。最近イーチェンは、たまに彼女を訪ねて来ることがあるが、いずれの時も意図的に一定の距離を置いている。ただ、こういう接触がすでに彼女を不安にさせていた。
こんなのいけないことよ。私は彼から少し離れなくちゃいけない……
2人が近くに来ると、一同はあからさまにモーションをじろじろ見定め始める。見た目は意外と悪くないが、着ているものはとてもカジュアル、髪はややショートで、心持ち魅力に欠ける。イーチェンを取り巻く女と比べても、ごく普通。
真っ先に挨拶したのはシアン・ホン。
「チャオ・モーション、ずい分早く帰国したんだね?」 彼は穏やかに笑うが、言葉の中には微かに棘を含んでいる。 「君がイーチェンに臥薪嘗胆の日々を送らせる腹積もりなんだと思ってたよ」
文字通り真綿に針を包んで、笑顔の中に剣が隠されている。モーションは何と答えようもなく、紋切り型の挨拶をする。 「シアン先輩、お久しぶりです」
「先輩と呼ばれるのははばかられるが、確かに久しぶりではあるわな」 シアン・ホンの表情は笑っているともいないともつかない。
イーチェンが簡単に紹介して、モーションがちょうど座ろうとした時、その美しい女弁護士は容赦なく攻撃の火蓋を切って出る。
「チャオさん、噂ではホー・イーチェンは手に入れにくいことで名高いそうだけど、あなたはどんな手を使って射止めたの?」
噂ではなく、実体験だろう。食卓上はひとしきり静かになる。
シアン・ホンはそれを聞いてお茶を噴き出しそうになる。こやつ、シュウ・ピーリーめ!
実際、別に彼女に悪意があるわけでなく、単に直球勝負に慣れているだけだ。大の男たちに混じって過ごす機会が多いせいで、ついこんな口調で話してしまう。法廷で判事に対してさえ、レベルも常識もないと悪態をつける女だ。その彼女にたおやかさなど望むべくもない。むしろ今日のこの手の質問は丁重な部類に入ると言えよう。ただ、チャオ・モーションはそんな局面に直面したことがないため、おおよそ手に負えないかもしれない。
シアン・ホンはひと肌脱ごうと口を挟みかけるが、ホー・イーチェンを見ると知らん顔して静観を決め込んでいたため、口をつぐんだ。他人のカノジョ、当人の心が疼いてもいないのに、なぜ自分がしゃしゃり出ていらぬ世話を焼こうとするのか?
モーションは少し呆気にとられていたが、どうにか自分を取り戻す。誰もしゃべっていないのを見たら、自分が場の空気を壊した気がして、心の中で申しわけなく思う。しかし実際は、純粋にショーを見たいがために一同息を殺し、手ぐすね引いて待ち構えているだけなのだが、それを彼女が知る由もない。
そこで冗談めかして言う。
「実を言うと、イーチェンを追いかけるのは割と楽でした」 彼女は自らの昔の経験を要約する。 「図太くまとわりついて、泣いて、騒いで、無理を言ってたら、彼が降参したもんで」
誰もが信じられない思いでイーチェンを見る。ホー大先生は事もあろうに本来そういう手口がお好みなのか?
シュウ・ピーリーは難色を示してモーションを睨みつける。 「そんな真似して、女性の品位がないと感じなかったの?」
「ん……当時はそこまで頭が回らなくて」 モーションは微笑む。
「そうやってしつこく追いかけて手に入れた男が、あなたに対してどれほどの愛情を持っているかしらね?魂で求めていなければ、いつの日か飽きて捨てられるのがおちよ」 シュウ・ピーリーは激しい剣幕で迫る。
「あ!」 ずっと話していなかったユエンさんが突然叫び出し、シュウ・ピーリーの攻撃をさえぎった。彼は興奮してモーションを注視する。 「思い出したぞ。君はイーチェンを振ってアメリカに行った女の子、だよね?」
えっ?!シアン・ホンとイーチェンを除いた残り全員がうさん臭そうにチャオ・モーションを眺める。彼女が、ホー・イーチェンを捨てただと?
モーションも愕然とする。私がイーチェンを振った?何から話すべき?しかも、なぜかこのたくましい大男のまなざしからにじみ出るものがまるで……崇拝?
「いえ、私は……」
まだ否認するつもりか?ユエンさんは迂回攻撃に切り替える。 「君はアメリカへ行ったことがあるんじゃないのか?」
「……はい」
「君は元カノなんだろ?」
「……そうです」
「ならば、間違いない」
木槌代わりにユエンさんの熊の掌でポンと叩く。有罪確定!
モーションは呆気にとられる。現代の弁護士は誰もがこうやって人を食った態度を取るの?
彼女が釈明しようとした時、イーチェンにぐいっと引っ張られる。 「すみません、お先に失礼します」
誰も引き止めはせず、ぼうっとして2人が出て行くのを見送る。
得月楼の建物から出ると、外の冷たい風が吹いてきて、彼女の混乱した頭がようやく少しクリアになる。前を歩いている彼を見て、堪えきれずに尋ねる。 「イーチェン、どうして何も言わなかったの?」
「何を言う?」
「あの人たちは何ていうか……私があなたを振ったと思ってる。そうじゃないことは明らかなのに、どうしてあなたは説明しなかったの?」 誇り高きホー・イーチェンがこんな誤解を受けて辛抱できるはずがない!
「どう説明する?」 イーチェンの足がぴたりと止まった。ぴんと伸びて広々とした背中が、この瞬間とても寂しそうに見える。しかし、ボソボソした声が夜風の中で非常に明瞭だ。 「俺自身もそう思ってる」