物語を創っていて、凹むときが多々ある。
アイディアが浮かばないとき、浮かんでも膨らまないとき、膨らんでも思うような話にならないとき、無理無理エンドマークまで引っ張っても二度と読み返したくないと思えるとき……。
中でも最近、自分の引き出しがめっちゃ少ないと感じることが増えた。これも凹む。
以前、私のことじゃないのだが、
「半径3メートルに届く範囲のことしか書いていない」といった批評を聞いたことがある。
今現在、それが自分に向けて言われているような気分でやたらに思い出す。
たぶん、……たぶんそうだろうと想像するしかないのだが、頭の中の世界観は広げようとしなければそこが限界、という意味かと思う。
私の場合、ぜひ人にお話ししたい物珍しい経験といったものが少ないこと、読書や映画も好みの物しか手に取ってこなかったこと、価値観の近い人といることが多かったこと、等々で広がっていない、という気がする。
でも、うすうす気づいていながらも、そこを脱せず書く際に結構小手先でごまかしてしまう。ごまかせてしまうのだ。
いや、書き手からするとエンドマークをつけさえすれば「できた」と錯覚してしまうという意味で。読み手から見たら「狭い、浅い」と一目瞭然でも。
そんなことを思うのは、最近良作を書く方を目にする機会が多いからである。
参加している小説サイト。
まあ私なんかでも気軽に投稿公開できてしまうので、玉石混交ではあるけれど、中には本当に何故にプロじゃないのか? と思わせられる方が多々いらっしゃる。
私の癖として、気になる作品に触れると、その方の書いた物を片っ端から読みたくなる。古い物まで今更という感じで閲覧しまくり、作者さんからすると変な人、と敬遠されてしまっているかもしれないが。
で、読みまくってその方の傾向がわかると、引き出しの広さに感服してしまうのがパターン。
へえー、こういうジャンルでも平気で書きこなすんだ、え、こんな社会問題もスゴイ斬り込み方、うわあめっちゃエグイ着地、といった、驚きや爽快さや尊敬の念がぶわっと沸騰しちゃうのである。
そういう方に共通するのは、博識で読書欲旺盛で当然勉強熱心、そして何かしら一家言お持ち、というのが伝わってくるということ。
読者には作品から作者の素が伝わってしまう。ごまかしたり化かしたりが通用しないと、読み手になればすぐわかる。
そんなことを考えると、自分など恥ずかしくて作品を公開できなくなる……となると超凹む。
が、自分も自分なりにそういう著者像に近づきたい、だからもっと勉強しなきゃ、という気持ちにはなるので、とにかく稚拙だろうが狭い視野だろうが継続して創り続け、人目に晒していくことにも意味があると思っている……思うことにしている。
(了)
↓「芽生え」がお題の新作です。10分で読めます。
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