お正月、見ていた方は多かったろう、箱根駅伝。
青学のブッちぎりトップ。シード争いも割とあっさり決まった。つまり、勝敗がどうなるかのハラハラドキドキは殆ど無かった。
そうなると、見せ場を作りたい放映側としてはあれしかない。タスキを繋げられるかどうかのドラマ。今年はそれが、はかったように起きた鶴見中継所だった。
ギリギリでどうにかタスキを渡すことができた中央大。ところが、あと20メートル、あと5秒。目の前に渡す相手が見えているのに、……渡すことができず、繰り上げスタートになった国学院。明暗クッキリ。
もうホントにねえ。実況が残念無念200%の絶叫をしていたけれど、同じように叫んだ人は数限りないだろう。自分も涙出ましたよ。あまりに切ない。
歳を取ると涙もろくなると言う。確かに日々年々その色をハッキリ感じている。
自分、以前はほとんど泣かない人間だった。痛いとか悔しいとかなら簡単に涙が出たが、こと感動となると全然泣けなかったのだ。映画にしろドラマにしろ、あざとく泣かせにかかるのが見え見えだと、しらけるばかりで。ま、可愛いげは全くない。
もっと遡れば、卒業式なども周りが号泣している中でもらい泣きもせず、笑っているような子供だった。小中高とそうだったが、特に小学校。周りはみんな同じ中学へ進むのに、自分だけ違う学校へ行くという状況だったにもかかわらず。ホント、可愛いげがない。
言い訳だが、思うに、どこか感情線みたいな部分が、固くてなかなか作動しなかったのではないか。ほら、運動でもしばらく準備体操して温まらないと体が思うように動かないような感じ。
それがこの年になって、……たぶんアラフォー辺りからだっただろうか。あざとく泣かせにきている、とわかっていても、ちっちゃな子がけなげだったり、犬が必死だったりするとボロボロ泣けてくる。特に近しい人でないとしても、もう二度と会えないのだな、というお別れに、涙が止まらなくなる。全く自分とは関係ないこと、人に関することでも、間接的に、いわゆるもらい泣きも普通にある。
そんな状態で、タスキである。5秒20メートルである。繰り上げスタートである。もうボロッボロであった。
あのルール、何とかならないものでしょうか。20分までしかタスキ繋いじゃダメ、ってやつ。自分、昔だったらルールはルール、絶対である。そっちを動かそうとする奴はろくなもんじゃない、とか切り捨てていたものだが。でも、不憫で不憫で見ちゃいられなくて。
泣きの神経の動き出しが遅かった分、発達が急激すぎて、もはやお婆ちゃんみたくなってるな、と思わなくもないが。
(了)
~~以下の小説サイトに投稿しております~~
↓↓↓よかったらお立ち寄り下さい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~