eijiのブログ -4ページ目

eijiのブログ

主に気になった映画や、日々起こったことについて述べて行きたいと思います。

 ブログを始めてからずっと主張していることがある。
 それは、いわゆる「ら抜き言葉」をやめてほしいということ。

 「見れる」「投げれる」「止めれる」等々。

 俺は、これらの言葉をテレビ等で聞く。すると、いちいち自分の頭の中で正しい形に変換してしている。

        
  もちろん、言葉は時代と共に変化するものである。それまで使用が許可されていた言い回しが、時代の変化によって使用禁止になったりする。自然に消えていったりする(キ○ガイ、び○こ、~時分、ナウイなど)。一方、突然、今まで聞いたこともないような言葉が出現したりもする。(歴女、KY、自重、禿げ同、DQN、など)

 したがって、「ら抜き言葉」も、時代の影響なのだから仕方がないという意見もわからなくはない。

             
 だが、まずなんかこう、生理的に気持ち悪いんんだよなぁ、耳にすると。

 それに、ら抜き言葉って、「広辞苑」などでは、まだ正式な日本語と して許可されていないはずだ。つまり、今の段階では、正式な日本語分 法としては一応正しくないわけだ。したがって、文法的な許可がおりる 時が来るまでは、やはり訂正していく必要があるのではないか。許可が
おりれば、俺も認めるのだが。

             
 そこで、今日は最後に、ら抜き言葉撲滅を目指すべく、ら抜き言葉の
簡単な使い分け方を紹介しておき、日記の締めくくりとする。

 簡単なので、言葉の乱れに敏感な方は是非やってみてほしい。使い分
け方の手順は以下3つ。

 1.まずその動詞を命令形にしてみる。
 
 2.そして、語尾が「ろ」で終わる動詞には「ら」を入れる。

 3. 一方、命令系の語尾が「れ」「て」「け」「せ」…等、「ろ」以外で終わる動詞には「ら」を入れない


 以上。すごく簡単。 

 一応、「見る」と「走る」を使って具体例をあげてみよう。

 まず、命令系にしてみる。すると、「見ろ」「走れ」となった。

 「見る」の方は語尾は「ろ」だ。「ろ」になったら「ら」は入れてもよかったはずだ。したがって、「見られる」となる。

 「走る」の場合は、命令系にしたら語尾が「れ」になった。「れ」で終わる動詞には、反対に「ら」は入れられない。入れていいのは、「ろ」で終わった時だけだ。したがって、「走れる」となる。

 わかっていただけただろうか。
             
 この方法を使えば、ら抜き言葉を即座に見つけることが出来る。大学のレポート、会社の企画書、重要なメール等々。正しい日本語を必要とされる状況は大人になればやはり増えてくる。この方法が多少なりとも役にやってくれれば、喜びこの上ない。


 1  
 北野武が「笑いは暴力」といいましたが、これは人間の感情的に絶対正しい。(僕がたけしファンなのは別にして。別にそれはここでは関係ありません)

                2
 笑い、とりわけ日本人の笑いには暴力性、狂気性がベッタリと張り付いています。飲み会での「無礼講」騒ぎ(実際には、なかなかできませんが)があったり、祭りで「ハレ」の空気を作ったりすることはその証拠に他なりません。
                
                3
 そして、純粋さ=笑いでもあります。バカ正直で素朴、一直線な人、悪く言えば騙されやすく、影響されやすく、物事の暗黒面を見逃せない人(つまりネクラ)…、こうした純粋さを強く兼ね備えた人は笑いを発生させる要素を持っています。つまり、イジラられ笑われます。言いかえれば皮肉にも「おもしろい」のです。

                4
 この自らの純粋さ=面白さ、という心理構造をうまく職業に昇華しているのがお笑い芸人です。彼ら(特にボケ)は、自分が人の中から「笑われる」要素を持っていると自覚し、逆にそれを利用して客を「笑わせ」、生活している。
                5
 


 ただし、皮肉を言えば、こうした純粋さ=面白さを強く持つ人はイジメの対象になってしまうことが多い。笑いがエスカレートし、イジメになった時だ。これが元で更に屈折し、精神疾患などおかしくなってしまう人も少なくない。純粋な人が、騙され、笑われ、罵倒された結果、殺人や暴力、ドラック、リスカなどなど…没落してゆく様は、もはや我々が当たり前に知っていることです。
                6
 
 さて、こうして三段論法で自動的に、笑い=純粋さ=狂気あるいは暴力性、という公式が得られます。

                7
 もう、この文を読んでいる方は、うすうすお気づきかと思いますが、オレ自身まさにここで書いたタイプに当てはまります。(笑)

 日本人って、つくづくすごいと同時に変な人種だと思う今日この頃。
               1
 高校のころからずっと密かに思っていたことがあります。それは

 自分とすごく似たタイプの相手は、すごく仲良くなるか、すごく嫌いになるかということでした。すごく仲良くなるのは納得できます。わからなかったのは、なぜ、スゴク嫌いになる人もいるのかってことでした。しかし、その時はその理由がわかりませんでした。

             2
 が、今になって、人間心理的に理由がわかりました。

 自分と性格、育った環境、知的レベル、風貌、現在の社会的立場、などなど。これらあらゆる要素が全く似ている相手ほど、なぜ嫌いになるのか?

         
 これには、まず「自己嫌悪」という感情が関係しています。自己嫌悪が強い人ほど、今回の日記のテーマにおいて嫌いの感情に陥りやすい。

 もう結論から言ってしまいましょう。

 それは、自分のうちのマイナス面を、その似たタイプの相手の中に見るからです。

 相手が自分と似たタイプであればあるほど、自分のマイナス面が、その相手に投影され、フィルターとして相手に鮮明に表れるからです。その似ている相手を通して、自分のマイナス面があらわになるからです。

 そして、それはさきほども言ったように自己嫌悪が強いほど、その相手への嫌悪感は強くなります。当然です。似た相手の内に、過剰な自己嫌悪によって強くなったマイナス面を見ることになりますから。

 おそらく、自分と似たタイプの相手と仲良くなることが多い人は、自己嫌悪感が少ないのでしょう。

               3
 ・育ちの悪い人を嫌うのは、ボンボンではない。育ちの悪い人です。

 ・下から成り上がって来た者が嫌うのは、もともと上にいた天才ではありません。おなじようなたたき上げの者です。

 ・バカを嫌うのは、ちょっと前まで自分がバカだった人です。

 ・美人はブサ男を嫌いません。ブサ男を嫌うのはブサ女です。

 ・ガリ勉の真面目優等生を本気で嫌うのは、劣等生ではありません。同じようながり勉優等生です。

              
 学生時代、ずっと思っていたことがあります。
クラスで、容姿や体型に恵まれない女性同士が同じグループなることは意外とありませんでした。徒党を組んで『アタシたち、頑張ろう』ってことは思ってたほどなかったなって。これはなんでだろうな~?と思っていました。しかし、これで理由がわかりました。

              4
 しかし、人間というのは、その相手に対する嫌悪感をまず認めたがりません。「嫌う」という意思表示をすれば、周りからイヤな目で見られて体裁が悪いからです。またその結果、自分の評価が下がることを本能で知っています。
 
 そこで、意図的にその「嫌い」を隠ぺいします。あるいは、「オレ(ワタシ)は、あの人を嫌ってない、嫌ってない」と呪文のように唱え、自己欺瞞に陥るのです。

 あ~スッキリした。「嫌い」の研究って、結構おもしろいですよ!
あくまでも、みなさんを嫌ってるわけではないので。色んなことを考えて研究したまでです