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主に気になった映画や、日々起こったことについて述べて行きたいと思います。

僕はトイレが好きである。駅でも公演でも家でも。駆け込むとなぜかホッとする。考え事にも適しているからだろうか。昔から、思索に耽るのに適した場を指して、「馬上、枕上、廁上」と言ったし。(「廁上」はトイレのこと)」

 とにかく、落ちつきたい時はトイレに一目散なのだ。

 

 

 さて、もう10年以上も前のことだ。当時高校3年。18歳。

 片思いの子がいた。

 一度も話したことはない。大学受験の勉強をするため、高校の自習室を利用していた。そこで、僕の目の前の席に座っていたのが、同学年の彼女。向こうからすれば、僕は完全な他人である。

 清楚で控えめな感じ(「感じ」でホレる、若いなぁ)。一重まぶただが、非常に整った顔をしている。(「顔」でホレる、青いなぁ)
 
 そんなちょっとクルールビューティ系(?)の彼女に一目ボレした。

 

 

 ところがだ!いつまでたっても勇気が出なくて話しかけられない。 高校3年の夏休みから、彼女の真後ろの席に「陣取った」。(「陣取る」、ストーカーだなぁ)毎日、放課後になればあの子は目の前に現れるのに…。

 

 「よし、今だ!」
 タイミングを見計らって、自分の席を立ち上がる。そして彼女に声を―だが、次の瞬間、僕の足は自習室の出口へ向かっている。部屋を出ちゃったから、仕方なくトイレに向かった…。

 「コロロ~ン」
 あの子が、シャープペンシンを床に落とした。チャンス!拾ってあげれば会話が生まれる!そこで僕は―なぜかトイレに向かっている!(涙)

 「ゴーン」
 彼女がイスを後ろに引いた瞬間、そのイスが僕の机に当たった。当たったのに気づいた彼女が、僕の方に振り向いた!申し訳なさそうに、何かを言いよどんでいる。キター!!さぁ、行けオレ!男になるんだ!

 ついに僕は、僕は…………!



 「クッサ…掃除してねぇなぁ?」…。

 なぜトイレにいるんだぁーーー!!
 なぜだぁ。用もないのに。おまけに用も足さないのに!

 

 結局、3月の卒業まで一度も彼女と会話できず。あの子の行方は今も知らない。

 こうして、一人の女子と友達になることはおろか、会話することもなく、我が高校生活は終焉を告げた。(※ウチの高校は男女共学だが、3年間男女別クラス編成なのです。)

 トイレに女神様なんかおりません!

 僕は浪人が決定し、1年後合格して大学に入った。大学でやっと女の子の友達ができた。だから、今ではいい思い出だが、やはりほろにがい。

 さぁて、トイレ行って寝よ。
接客のお仕事をなさっている方。クレームをつけてきたり、変にイライラし
た客と出会ったら、ある部分に注目だ。


 
 今日コンビニに行ったら、そんな客にバッタリ出会った。見たところ50代サラリーマンの男。大阪弁だった。サングラスっぽいメガネをかけている。やしきたかじん似。(本人!?(笑))何かイヤなことでもあったのか。すでに相当飲んでいたのだろう。(←たかじんのバーで?)真っ赤な顔。

 レジで缶チューハイ2本の入ったカゴを、店員に差しだす。

 「おい!!ここは2本しかないんかい!?品切れとるやろ!!」

 「すいません」

 「袋なんかいらんわ、ボケ!!」


 まさに、「そこまで言っていいんかい!?」である。

 ところが、イチャモンをつけられた店員も、50代の気の強そうなオバチャン。人生経験か?こなれているのか?冷静に毅然として対応。荒波も立てず、レジを打ち、平静に「どうも。」(おばさーん、俺は感動してしまったぞー(涙))

 その店員さんのファインプレーで、ケンカや事件沙汰にもならなかった。男は店を出て行った。

 

 さて、男が店を出てゆく後ろ姿を見ながら、「ははあ~ん、やっぱりなぁ」と思った。




 猫背なのだ、そのオッサン。
 

 カッとなって怒ることを「頭に血がのぼる」という。なぜそのように言うのだろうか。その正式な語義を僕は知らないが、何か「姿勢」が関係しているような気がする。

 姿勢が悪いので、血が首のあたりでコリ固まって、血液循環が悪くなる。すると、ちょっとしたことをストレスに感じ、不快、イライラが募る。結果、その不快、イライラが外に「怒り」となって現れる。「怒った」直後は、脳はそれを快感と感じるので、クセになる。こうして、「怒りっぽい人」誕生である。

 つまり、怒りっぽい人には、猫背だったり、首がひん曲がっていたり、姿勢が悪い人が多いのではないかということだ。

 
 当の僕自身、結構カッとなりやすいタチなのだが、やはり昔から猫背気味なのを母親からよく注意されていた。

 だから、姿勢はまっすぐするよう心がけている。どうやら、体の中心軸を、一本の糸でピンと釣られているような感覚を持つといいらしい。

 「背筋も口ほどに物を言う」ということだろうか?
 

2008年1月の総務省の調査によると、ネット上で公開されているブログの内、1か月に1回以上記事が更新されているものは、全体の2割弱しか満たないのだという。

 結局、パソコンのインターネットネット上でブログを始めたものの、更新ができなくなって、そのまま放置している人がたくさんいるということだ。(注1)



 これは僕自身もそういう時があったし、みなさんにも心当たりがあるのではないか。
 では、どうしてパソコンのブログ記事は更新されなくなる傾向にあるのか?

 僕は、その理由の一つとして、文章を書くという行為が、思いのほか知力、体力、精神力を消耗する行為であるからだと考えている。そしてその結果、やがてそれに耐えられなくなる書き手が多いからではないかと推測している。

 文章を継続して書き続ける。その消耗度は、時として生死に関わるほどである。これは大げさな言い方ではない。

 なるほど、携帯から簡単に書けるようになったこともあろう。また、限定された文字数の中で、早く書けるツイート機能が登場した。その結果、書き手は平易に書ける携帯の、しかもツイート機能の方を使うようになったことも考えられる。さらに言えば、コメントが来ないから、書く気力が起きないという声もあろう。

 だが、その携帯のツイート機能も、エネルギーをキーボードや手書き原稿ほど使わない。それで、言いたいコトが言えるのだから普及したともいえる。

 また、コメントが来ないについて。
 誰も認めてくれない。あんなに一生懸命書いたのに。寂しい…。だから、書くせいでプライドが傷つくくらいなら放っておこう…。(注1)こうしして執筆を放棄してしまうのも、書いて表現するという行為がいかに自らの精神と戦い、葛藤するか、その表れだと思う。


 
 僕自身経験があるが、一定量のきっちりした文章を継続して書くためには、相当なエネルギーを消耗する。ただ、それでも書きたい衝動が上がってくる。だから書いているだけである。

 執筆中、執筆後には、頭痛はする。肩コリは当たり前。背中や腰が痛い。神経は摩耗。腹は減るし。汁をしぼりとられたオレンジの皮のように、全身がスカスカになる…。


 
 村上春樹はこう語る。
 
 「長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし、一冊のまとまった本を書きあげることは、むしろ肉体労働に近い。(略)机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中する。そして、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生みだし、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続ける--そのような作業は、一般的に考えられているよりもはるかに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。(略)まさに骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されているのである。」村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』(注2)



 僕は、(きちんと作品を読んだ上で)村上春樹はあまり好きではない。しかし、この点にだけは同意する。もちろんプロの小説家と素人の書き手では、書くことに対する姿勢が違う。しかし、いったん筆を走らせ、いざ何かを表現するとなったら、両者は同じスタートラインにいる。


 
 書くというのは、道路工事の仕事のようなもの。(ガテン系の方をバカにしているつもりはありません)でも、好きだから書き続ける。例え周りから読まれなくても。評価は関係ない。それでいいと思う。そんなもんだし。

 ※(注1)小池龍之介,『考えない練習』,小学館,2010
 (注2)村上春樹,『走ることについて語るときに僕が語ること』,文春文庫,2010