塾講師、小学校課外授業講師、とぽつぽつ仕事をしているわたしだけど、塾講師は1:1の個別授業、
小学校は多くて8人と少ないので、大人数の子供に関われる仕事をしたかった。

やはりゆくゆくは一人で30~40名の子供たちと向き合うのだから、距離感を身体感覚としてつかんで起きたい。

で、行ってきましたキッザ○ア面接。場所は有楽町線豊洲駅、朝も早くに電車を乗り継ぎ久々の満員電車に心も身体も押しつぶされそうになりながら。

応募職種はスーパーバイザー、簡単な英語で子供に職業体験の流れを説明する仕事。

この企業そもそもはメキシコに本社があるらしい。だからdisne○でいうところのミッキー(男の子代表)、ミニー(女の子代表)、プルートー(ペット代表)にあたるキャストの名前がなんとメキシコ名なのでちょっと覚えにくい。

面白いのは、入場にあたっては大人だけでもだめ、子供だけでもだめ、大人と子供の両方でないと入場できないと決まっている事で、だから若いカップルなんかは対象外なのだ。これ意外。

ターゲットを完全に「親子」にしぼっていて、コンセプトも細部にいたるまで、「教育」につながるようになっている。
これまた覚えにくいが、education+entertaiment=edutaiment(エデュテイメント)がこの企業の座右の銘らしい。


単なるエンターテイメントと一線を画すのは、子供たちがパビリオン(=アトラクション)に入ったら、親は入室できない。ガラス張りの部屋の向こう側から真剣な子供の横顔を見守るしかない。
楽しむのが目的なのではなく、自立心を養う目的があるからだ。

遊ぶだけであれば、大人は子供を危険から守る役割を果たしつつ、子供に対する主導権を握ればいいのだけど、教育の要素が入るとそうはいかない。

教育の場に置いて、主導権はあくまで子供にあり、大人は子供を遠くから見守らなければならない。そうして子供の心の奥底から自立心や協調性という芽が吹き出してくるのを信じて待つしかない。

遊びの主導権は大人にあり、教育の主導権は子供にある。一見逆のようにおもわれがちだけどこれは真実。

でもこれはいいコンセプトだと思う。

エンターテイメントの舞台がファンタジーな夢の世界=非現実ではなく、現実だから。

共働きの両親が多くなってきた現代、子供たちにも大人の世界を察する想像力が必要になってきた。

大人たちから手渡される断片的な情報をかき集めて、子供たちは日々自分たちが住む世界の輪郭を探っている。

この施設を訪れ、大人の仕事を体験することで、子供たちは自分が普段目に見えない多くの人々から守られ、支えられている事に気づくだろう。

最終試験は数名のグループで一粒の大豆をお箸でリレーすること。

ここでは基本的な箸遣いとコミュニケーション能力を見られたようだ。

前職は飲食業を営んでいたという社長の発案らしい。

いわく、「箸の持ち方はその人の人生を物語る」

受かっていればいいけど、試験を受けただけでもなかなか有意義な話を聞けた一日だった。

そういえばこの就職試験でとても素敵な出会いがあったけど、それはまた後日。
先日の歌会は題詠で、タイトルは「焼く」

ちなみに歌会、とは前月の間に題を賜り、締め切りまでに提出した歌を無記名でプリントし、批評し合う会のことです。

そのなかに一首気になる歌があった。

源氏物語の六条御息所を題材にとり、「死んでからも焼もちを焼いている」と歌った歌だ。

気になったのは御息所が葵の上を取り殺した感情は、「焼もち」という形容で収まるのか、という点だ。

わたしは過去にひも解いた文献に、「焼もち」と「嫉妬」の違いについて明確に定義した一文があったことを思い出す。

いわく、

「焼もち」は、自分の物(または者)が離れていきそうな不安を表すものであり、

「嫉妬」は本来自分の物であるはずが他人に完全に奪われたときに起こる恨み、だそうだ。


とすればいわずもがな六条御息所のそれは後者でしかありえないだろう。

だが本来歌の達者な方が詠まれた歌なので、ここは軽いユーモアととるべきだと思い、敢えて口を挟まずにおいた。

歌の話は横に置くとして、嫉妬と焼もちについて再考するいいきっかけとなった出来事だった。


どの女も紫の上になれるとは限らない。だがどんな女でも六条御息所にはなれるのが哀しい。

できうるなら、私は花散里になって事の次第を母性をもって見守りたい。





大人になって学んだもうひとつの真実のひとつに、嫉妬の本質がある。

それはつまり、女性に嫉妬される男性は、他の誰かに渡したくないと思われるほどの甘やかな何かを
女性の心に残した男性だということだ。

だが、愛する人に抱く感情が、温かで柔らかいものでなく、黒く渦まくものになっていったとき、その恋はもはや亡骸と化しているのだと自覚するのも、大人の女性のたしなみなのかもしれない。




「日本人の微笑は、極限にまで自己を抑制した礼節なのである」小泉八雲

寂しさを人にうつさぬ善行を持ち堪えきて今日も眠るなり 斉藤史



ほんのわずか、目尻を下げ口角をあげる事で心の仮面は出来上がる

その仮面は自分の不幸を他の人々にうつさないための心配りだったり

無私と忍従が幸福な生活を送るこつだとわきまえた上での大人の礼節だったりする


現代において微笑は使い方が難しい

近代化がすすんだ社会では

微笑の機微を掬うことができる大人が少ない

微笑し、される者の間に無言で交わされる

「ご心配なく」
「こちらこそ」

の阿吽の空気はもはや通用しなくなってる

大人はもはや微笑をしなくなったのかと思いはじめたある日

わたしは微笑をする子供たちに出会った

その微笑の裏には暗い空洞が広がるばかりで

この微笑のゆくえは杳としてしれなかった