俳優・梅宮辰夫さんが死去 | オッシーJO☆の『新・当たり障りのないブログ』

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TBS【スクール☆ウォーズ】テレビ朝日【はぐれ刑事純情派】などに出演した俳優の梅宮辰夫さんが、12日(木)午前7時45分に慢性腎不全で入院していた東京都内の病院で死去した。享年81


梅宮辰夫
本名:同じ
1938(昭和13)年3月11日生まれ
出生地:満州国(現:黒竜江省)・ハルビン市
出身地:東京都品川区

1946(昭和21)年、一族で太平洋戦争終結後の日本に帰国し、医師の父・次郎の勤務先である茨城県水戸市に転居。1956(31)年、父が品川区戸越銀座にて『梅宮医院』を開業。早稲田大学医学部を受験するも不合格となり、日本大学法学部に入学するも後に中退する。(理由は後述)

1958(昭和33)年、中央区銀座で東映社員から『新人オーディション』に誘われ参加。見事に合格すると、大学を中退して東映に《ニューフェイス5期生》として入社。翌年、映画【母と娘の瞳】でカメラテストを兼ねたエキストラ出演を経てデビュー作の映画【少年探偵団 敵は原子潜航艇】での主役の小林少年役を演じた。これ以降、人気と報酬が上昇する梅宮の私生活は、一夜の呑み歩きで数十万円が消えるほど派手になっていく。

1960(35)年、東映が東京撮影所の次世代スター俳優として推していた波多伸二氏が急死し、急遽主演向きの若手スターの選定が行われ、幹部の大半が推薦した俳優を岡田 茂プロデューサー(現:東映社長)却下して、梅宮起用を決定。鶴田浩二氏や高倉 健氏が京都で撮影する作品が増えたため、梅宮は実質的に東京撮影所の大スターとなり、その人気は『現在の若手俳優とは比べ物にならない』ほどだったという。

この頃、結婚前提で女性と同棲するも、3年目に女性の妊娠が判明したが、突然別れを切り出し同棲と婚約を解消。1968(昭和43)年12月に銀座のクラブのナンバーワンホステス・大門節江氏と入籍するが、結婚生活は半年で破綻し離婚。

1971(昭和46)年ごろからは任侠路線作品と【不良番長シリーズ】に出演したが、梅宮は「どちらかと云うと、ヤーサンより『不良番長』みたいな女ったらしの方が素に近いから撮影してて楽しかったね」と懐述した。

1972(昭和47)年、個人事務所『梅宮企画』が経営破綻して倒産。多額の借金を抱えるが、従兄弟の紹介で以前交際しながら母親の見合い話を断れず離別したアメリカ人モデルのクラウディア・ビクトリア・ルールダウ氏の「2号(愛人)でもいいから別れないで」の言葉が忘れられず、最終的に見合い話を蹴ってクラウディア氏と再婚。奮起により借金も完済した。

74(昭和49)年にはこう丸腫瘍のガン細胞が肺にまで転移したため、抗がん剤での化学療法を受けたが、副作用の体毛の抜けが一切起こらず主治医を驚嘆させる。

75(昭和50)年に脚本を務めた倉本 聡氏の要望でドラマ【前略、おふくろ様】で寡黙な板前・村井秀次役で新境地を見い出し、【新・夜明けの刑事】と【明日の刑事】の刑事課課長、【スクール☆ウォーズ】の校長など周囲の人望を集める役どころを好演する傍ら、バラエティ番組への出演や味覚を生かして漬け物店や炭火焼き店を経営など実業家としても成功する。

漬け物店の立ち上げについては他界した母親の自家製キムチの味が忘れられず、自分で再現したのがきっかけで、化学調味料を一切使わない味が評判を呼んで本州に20店舗を展開した。

多数の映画で共演した故松方弘樹氏とは、バラエティ番組では些細な理由で口喧嘩をしたり、共通の趣味の釣りでは海外のフィッシングコンクールで大物を釣り上げて入賞するなど公私に渡る盟友だった。

2016年、娘の梅宮アンナ氏が記者会見で『十二指腸にガンが見つかったため治療中』と発表。元号が“令和”に代わる直前の今年春のテレビ朝日の昼ドラマ【やすらぎの刻~道】が5年ぶりのドラマ出演だった。


梅宮さん、長い間お疲れ様でした。

ご冥福をお祈り致します。