《鉛玉と紙幣》
東京・兜町の血と汗と焼酎の記録


昭和二年の春、桜は咲いてたが、カネは枯れてた。

取り付け騒ぎ?ああ、見たとも。
銀行の前に群がる連中の顔は、女房寝取られた男みたいな顔してた。


泣くやつ、叫ぶやつ、喧嘩するやつ。
だけどよ、本当に荒れてたのは、銀行の裏口だった。




俺はその頃、兜町の「虎ノ眼(とらのめ)」っていうノンバンクの用心棒やってた。
名目は「相談役」。

実態は、金が返せねぇヤツに拳銃を見せに行く係だ。

使ってたのはモーゼルC96・マルゼン流れの密輸品。
日本刀の時代は終わったんだよ。
今は引き金ひとつで財産が動く。
それが昭和の商売だった。



ある日、野村銀行の支店長が夜逃げした。
朝の新聞は黙ってたが、裏社会は知ってた。
「これはただの経済危機じゃねぇ、国家の裏切りだ」とな。

俺はその夜、帝国銀行の元支店長だった男の家に乗り込んだ。カネじゃねぇ。情報だ。

「お前ら、いつから潰れるのが分かってた?」

男は震えてた。
枕元の札束の上に、汗が落ちてた。

だが俺のモーゼルは、汗に濡れねぇ。
鉛は濡れずに真実を撃つ。




その頃、軍部が裏で動いてた。
政友会のゴロどもが金の流れを変えようと、銃の流れを買っていた。

「恐慌」は、経済用語じゃねぇ。
あれは静かなクーデターだったんだ。
日銀?
政府?
そんなもんは一発の銃声で黙るネズミだ。




俺か?昭和四年の暮れに、新宿の路地裏で撃たれたよ。
肝臓に一発、肺に二発。でも生きた。

だって俺は、紙幣の臭いじゃ死なねぇ。火薬の臭いで育ったんだ。




今の世の中、金利がどうの、株がどうの言ってるがな。

忘れるな。
金融ってのは、本来「暴力」なんだよ。

暴力のないカネは腐る。
そして腐ったカネは、必ず銃弾を呼ぶ。






株式投資と新宿鮫。



犯罪と情報、都会の闇と人間の情。

群れることを拒んだ刑事が、数字の裏に潜む“欲望の暴力”を、

静かに、確実に追い詰めていく。




「株式投資」は単なる資産運用じゃない。

それは、都市という巨大な心臓の脈を読み、裏切りと誤算のタイミングでトリガーを引くことだ。




《新宿株(カブ)鮫》


第1章 ナイフとチャート



雨が降っていた。

梅雨でもないのに、やたら冷たい雨だった。


鮫島は警視庁生活経済課の資料を、誰もいない夜のデスクで読み返していた。

銘柄名と数字の羅列。だがその数字の奥には、明確な悪意の息遣いがあった。



「インフルエンサー型風説の流布――SNS発信→株価操作→急落→空売り回収」

若い刑事が言った。

「手口が、まるでギャンブルです」


鮫島は言葉を返さなかった。

それはギャンブルじゃない。

これは“狩り”だ。




仕手筋の名は「カミヤ」。

六本木にオフィスを構え、表の顔は「金融教育系インフルエンサー」。

だが裏では、未公開銘柄と不正情報の発信で数十億を短期で稼ぎ出していた。



彼は株価の動きを見ていない。

人間の動揺を見る。

投資家の不安と興奮、その欲望をAIと心理学で操作する。

それが“カミヤ・モデル”。




「奴のシグナルは午後9時、Twitter経由で発信される」

情報屋の女が言った。

その女は、どこか、晶に似ていた。


「たった一言、『◯◯、明日跳ねる。』それだけで翌朝、2000人が飛びつくのよ。思考停止してね」


鮫島は黙って、冷えた缶コーヒーを開けた。

「“明日跳ねる”か。跳ねた後、誰が地面に叩きつけられるかは書いてないな」




夜の新宿に戻る。

タワマンの最上階にあるカミヤの部屋。

そこに銃はない。


あるのは、ネットと数字と、人間の恐怖だけだ。それで十分だった。


だが鮫島は、その部屋に足を踏み入れた。

警察手帳も拳銃も使わない。

彼が持ち込んだのは、ただの「質問」だった。


> 「あんたが操ってたのは株じゃない。人間だな」




カミヤは笑った。

「人間なんて、金と恐怖でいくらでも動く。投資家も、刑事も、ね」


次の瞬間、チャートが崩れた。

ネットに流出した“誤報”、群衆の売り、AIの自動売却。

それはまるで都市の心臓が止まる音だった。




第2章 信用取引と失われた心臓



人が動くとき、そこに理由なんかいらない。

だが金が動くとき、人は必ず嘘をつく。


鮫島はそれを、血で知っていた。




世界は変わらない。変わるのは、誰が損して誰が儲けたかだけだ。

都市の脈動は続く、人間の欲望と恐怖とともに。





第3章 逆指値の罠





早朝6時、新宿南口。

ビルの壁に貼られた電子掲示板に、日経平均先物の数字が点滅していた。

落ちている。激しく。


その頃、新宿署生活経済課に一本の匿名電話が入っていた。

内容は一行。


> 「明日の朝9時、◯◯テックが暴落する。信用買いで殺されるぞ。」




それは警告だったのか、それとも誘導か。

この街では、情報そのものが武器になる。


鮫島は椅子を蹴り上げて立ち上がった。

資料の束を床に蹴飛ばしながらつぶやいた。


「またか……また“逆指値狩り”かよ。」





カミヤは仕組んでいた。

仕手株の急騰を演出し、個人投資家に買わせる。

多くは信用取引。借金で夢を見る、命綱のない高所綱渡り。


そしてある時間、AIで特定の価格帯にだけ売り圧を集中させる。


結果、逆指値(ロスカット)が連鎖的に発動し、チャートは地を這う。

焼ける。逃げられない。

モニターの向こう側で、何百人という素人が破産する。


だが彼は、空売りで静かに笑う。

その音はしない。

だが、何より凶悪だった。





第4章 終値の向こうに




夜の新宿、コマ劇場跡地前。

カミヤの部下、証券ブローカーの男が何者かに刺された。

金ではない。裏切りの処理だった。


「泳がせてるつもりが、逆に仕掛けられてたんだ」


情報屋の女――通称「エコノミカ」――が、薄く笑って言った。

彼女の手首にはApple Watch、だが目は昭和のギャンブラーのそれだった。


「株価は嘘をつかない。でも人は、いくらでも嘘をつける」


その夜、鮫島はついにカミヤのオフィスへ踏み込む。

何もなかった。

ただ、ログイン中の証券口座画面が、光っていた。


画面の中央に、約定履歴が浮かんでいる。


> 【売】◯◯テック 40,000株 @ 1,220円

【買戻】◯◯テック 40,000株 @ 870円

利益:約1億4000万円




横に添えられていたメモ――手書きの一言。


> 「人間なんて、チャートにすらなれねぇ。」







鮫島は画面を見つめながら、コートの襟を立てた。

銃を出すまでもなかった。

だが、何かを殺した気がした。




株とは何か?

希望か、地獄か、人間の心拍か。


新宿の夜は、また始まる。





第5章 板情報とインサイダーの女




新宿・ゴールデン街の一角、かつて芸人が寝泊まりしていたボロいバーで、鮫島は**“板の魔女”**と呼ばれる女と会った。


名は志摩(しま)レナ。

元証券会社ディーリング部のエース。

今は、トレードの板情報だけで日銭を稼ぐ孤高の女だった。


彼女の手元には、リアルタイムで変動する3画面モニター。

買い板、売り板、約定履歴――数字の流れに彼女の指が沿う。

それはもはや、楽器演奏に近かった。


「この銘柄、明日の10時7分、売り板が崩れるわ」


「根拠は?」


「見てないの? 売り圧が機械的に10万株単位で移動してる。

 AIにしては早すぎるし、人間にしては正確すぎる」


レナの指が止まった。

「これは、“計画されたインサイダー”よ」


彼女が見ていたのは、環境関連の新興株・R-Lab社。

政府系ファンドとの契約締結を“装った”情報が、すでにSNSで広まりつつあった。


だがそれは偽情報。

カミヤの手口に似ていた。

だが、それよりもずっと巧妙で、ずっと冷たい。





第6章 損切りする魂




事件の全貌が見え始めた。

だが、そこに**「国家の名前」**が絡み始めたとき、鮫島はひとりで動けなくなった。


警察庁上層部が言う。


> 「カミヤは、もう“個人”じゃない。

彼の背後には、外資系ヘッジファンドと、日本の某与党議員がついている」




つまり、カミヤは泳がされていた。

SNSと投資家心理を研究する**「実験装置」**だった。

株価を操作し、世論を動かし、法整備を進めるためのショックドクトリン。


レナがつぶやく。


「……人を損切りする時代なのよ、今は。

 『株式市場で負けたのは自己責任』って言えば、誰も血を流した理由を問わない。」




夜、鮫島は再びカミヤに接触する。

今度は東京湾岸の秘密のクラブハウス。

セキュリティは民間傭兵、全員元・陸自特殊部隊。


銃声はない。

だが、そこにはもう国家の論理があった。


「君が追ってるのは“犯罪”じゃない。

 未来を調整する経済工作だよ。

 邪魔をするなら、君ごと“損切り”される」


カミヤはそう言って、ワインを飲み干した。

赤い液体の向こうで、チャートがまた一つ跳ねた。










――大正七年、あるヤクザ者の回想――

あの夏、俺は魚津の港で、安酒と安女にまみれていた。
だが町の空気はいつもより荒れていた。
昼間っから女たちが怒鳴ってる。炊き出しの鍋は空っぽだ。
理由はひとつ――米がねぇ。

クソが。
米の値段が跳ね上がった。東京の株も、政府の信用も、ついでに俺の食欲も全部ぶっ壊れた。

「米が買えねぇんだよ!」
年寄りの婆さんが俺の前で泣いてた。
だが、俺はその横で煙草を吸ってた。
情けねぇ? 違うね。
俺は怒ってた。

港に停まった商船。
その積荷に山ほどのコメ袋が載ってた。
だが、それを買えるのは一握りの地回りと、県庁から金握らされたブローカーだけ。

「てめぇらが喰ってるのはコメじゃねぇ、民衆の内臓だ!」
そう怒鳴った女がいた。
振り返ると、いい面構えの女だった。髪は乱れて、目が据わってた。

俺は思った。
――こいつは、ケンカができる。



その夜、俺たちは船を襲った。
手製の松明、ツルハシ、銃もねぇ。
だが、腹が減ってるヤツは何より強い。

倉庫が燃えた。
警察が来た。
俺は逃げた。

だが逃げながら、あの女が笑ってたのを見た。
燃える米袋の向こうで、腹を抱えて笑ってやがった。


あの笑いは、きっと帝国陸軍の三八式歩兵銃より響いた。




俺か?
そのあと憲兵に捕まって、獄中でまた腹を減らしたさ。
だが覚えてる。
あれは戦争だった。

銃の代わりに、空腹と怒りを握った連中の、マジな戦争だった。

今の若ぇ連中は知らねぇだろ。
白米を奪い合って、人が人間に戻ったあの夜を――。




大藪節とは、暴力・怒り・スピード・銃・女・そして男の誇り。
このスタイルで、1918年の米騒動を、現代ノワール・ハードボイルド的に再構築します。
口調は荒く、描写は濃く、そしてブッ放す――それが大藪調です










カップ焼きそばの作り方。



《コードネーム:YAKISOBA》

オペレーション開始時刻:23:47 Time
作戦区域:アメリカ合衆国州・ジャック・ライアン私邸・キッチン
目的:即席焼きそばの調理および摂取
敵対勢力:空腹、老化、そしてカロリー制限



ジャック・ライアンは、CIA長官としての職務を終え、ようやく帰宅した。
着替える間もなく、彼はキッチンへ向かった。冷蔵庫にはビールしかない。

だが、棚の奥に「Nissin Yakisoba(米国版・日清焼きそば)」がひとつだけ、未開封で眠っていた。

判断:これが今夜のミッションだ。

彼は即座にタスクを構築する。
コードネーム《YAKISOBA》。
全体の行動計画は以下の4段階に分類された。



フェーズ1:湯沸かし(OPERATION BOILPOINT)

彼はケンモア社製の電気ケトルに水を注ぎ、電源を投入。
沸騰開始。標準時間2分30秒。
外では嵐が近づいていた。

空腹は、もはや生物学的危機だった。
体内グルコース濃度、臨界点寸前。




フェーズ2:麺投入と注湯(PHASE DELTA)

ライアンはパッケージを開け、中の乾燥麺と小袋を即座に分類。

ソース、小えび風フレーク、青のり風粉末。構成をスキャンして分析完了。
彼は沸騰水を容器の所定ラインまで注入。


全神経を集中して蓋を閉じる。
この3分間に、国家機密が動いても、彼は動かない。




フェーズ3:排湯(EXFILTRATION)

最も危険なプロセス。
ミスすれば麺が全滅する。

しかし彼は、陸軍レンジャーでも失敗しない排水角を把握していた。
容器の指定開口部から湯を流す。


そのとき、彼の背後で犬が吠えた。
だが動じない。それがCIA。




フェーズ4:ソース投下と混合(BURN & STIR)

液体ソースを全量投入。即座に混合を開始。
円運動。逆回転。層構造の均一化。
地味な作業。だが、戦場では地味な仕事ほど命を救う。


ライアンは黙々と、しかし完璧に混ぜ切った。
彼の中のアナリストが告げていた。「この一杯は、今夜最大の情報資源だ」と。




MISSION COMPLETE
ライアンはひと口食べた。
味は……濃い。塩分は高い。だが、必要なものがすべて入っている。


国を守るためには、エネルギーが要る。
彼は黙ってビールを開けた。

「次は、インスタント味噌ラーメンだな……」
彼はぼそっと言い、再び世界の混乱へと戻っていった。



クランシー特有の軍事的ディテール、精密な手順、国家的危機スケールにまで肥大化する小さな行動を、カップ焼きそばに適用。
結果、もはや即席麺ではなく戦略オペレーションと化します。








台所の隅に転がっていた。
それはつまり、カップ焼きそばである。

私は空腹で、どうしようもなく空腹で、けれどそれを空腹と呼ぶことが、どうしようもなく恥ずかしかった。


この世の中に「腹が減った」と素直に言える人間が、どれほど幸福か、あなたにはおわかりになりますか。

私はふらふらと濃厚味噌と9ミリと──ある夜の麺、湯を沸かした。


やかんの底にわずかに残っていた水。私は、それを、無駄にしたくなかった。
なぜなら、私の生涯は、だいたい「無駄だった」ことばかりだからである。


お湯が沸くまでのあいだ、私は床にしゃがみ込み、煙草を吸った。
煙草は不味かった。けれど、私はその不味さを、自分の人生と錯覚することで、ある種の慰めとしていた。



つまり、焼きそばを作るその三分間すら、私は生きているふりをしなければならなかったのだ。

湯が沸いた。
私は容器の蓋を三分の二だけ剥がし、内側に貼りついたソースの袋をはがし取った。


ソースの温もりに、ほんの少しだけ人の気配を感じた。
人が作ったのだ、こんなものでも。人が考え、測り、調合し、完成させた。


だが私は、ただ湯を注ぐだけの存在である。
受動、沈黙、模倣――それが私だ。

三分経った。
私は、蓋を慎重に外し、排水口にお湯を捨てた。

このときが一番、緊張する。
何度も私は麺を流してきた。まるで人生を排水口に流すように、何度もだ。

だが今日は、うまくいった。
悲しいことに、それだけで少し嬉しかった。

ソースをかけた。そして、箸で混ぜた。
そのとき、ふいに、私は涙が出そうになった。


ソースの香りが、幼いころの遠足の弁当を思い出させたのだ。

それは母が作ってくれた焼きそばで、アルミホイルに包まれて、冷えていたが、あたたかかった。

私はそれを食べた。ひとくち、またひとくち。

味は、正直に言えば、あまりおいしくなかった。
けれど私は、完食した。

なぜなら、残す理由が見つからなかったからである。

ごちそうさま。
それだけ言って、私はまた床に戻った。


空になった容器を見つめながら、思った。
私はやはり、生きていても、仕方がないのではないか――と。


だが、次の空腹がくるまでは、とりあえず、死ぬわけにはいかない。




カップ焼きそばを太宰治風にて――
虚無と哀愁、自己嫌悪と一縷の滑稽さを孕んだ、救いようのない、それでもなお人間らしい“麺の手記”。










その日、僕は台所の隅で埃をかぶったカップ麺を見つけた。赤いパッケージに派手なフォントで「濃厚味噌」と書いてある。


なんだかやけに自信満々な感じがした。僕はそれを手に取り、キッチンのテーブルに置いた。午後3時27分。特に理由はない。

ただ、その時、何かを食べるのが自然な気がしたのだ。

やかんに水を入れて火にかける。ガスの火が静かに揺れて、水はしばらくしてから小さな音を立て始めた。


シュワシュワ、ゴポゴポ。僕はその音が嫌いじゃない。僕の人生には、時々そういう「意味のない音」が必要なんだ。


カップの蓋を開ける。中には、乾燥した麺の塊と、小さな袋が三つ。粉末スープ、かやく、液体スープ。それぞれが、まるで無口な登場人物のようにそこにある。


僕はかやくと粉末スープを先に入れて、液体スープは蓋の上に乗せた。温めるためだ。そう書いてあるから。


お湯が沸いたので、それを丁寧に注いだ。麺の上に。ジャズを聴きながら。ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』。

麺とジャズ。どこか、しっくりくる組み合わせだ。

三分間、僕は本棚から適当な本を取り出し、最初のページをめくったけれど、内容は頭に入らなかった。

仕方がない。こういうとき、頭は食べ物のことでいっぱいになっているのだ。



タイマーが鳴った。僕は静かに液体スープを入れて、箸でゆっくりとかき混ぜた。すると、ふわりと味噌の匂いが立ち上った。


それは、子どもの頃、母が台所で味噌汁を作っていたときの匂いに少し似ていた。



僕はそれを啜った。舌に少し熱すぎたけれど、悪くなかった。悪くないというのは、僕にとっては最大級の褒め言葉だ。



僕はそうやって、カップ麺を食べ終えた。そして少しだけ、人生がうまくいくような気がした。







カップ麺の作り方。

深夜零時過ぎ、六本木の裏路地は、雨に濡れてまだらなアスファルトが黒く光っていた。
氷室はマンションの一室に戻り、ジャケットをソファに放り投げた。


ホルスターから抜いたSIG SAUER P226を、テーブルの上に置く。マガジンを抜き、残弾を確認。7発。

「その前に、メシだな」

キッチンの棚を開ける。赤いカップ麺がひとつ。
「濃厚味噌ラーメン」。
どこか場違いなほど、ポップな書体が目についた。



女はいない。温もりもない。
だが、この即席麺だけが、まだこいつを生きた人間に繋ぎとめていた。


やかんに水を入れ、火にかける。
熱くなるまでの時間、氷室はタバコに火をつけた。

煙の向こうに、さっきまでの銃声がちらつく。



奴は確かにこちらに向けて引き金を引いた。迷いもなく。
つまり次はこっちが引く番だ。

湯が沸いた。
麺の上に一気に注ぐ。蒸気が顔を撫でた。
粉末スープと乾燥具材。

それから、液体スープは蓋の上。


時間は三分。だが、街じゃ三分あれば人は死ぬ。生きるためには、それでも待たなきゃならない。

三分後、静かに蓋を剥がす。
麺が柔らかく膨らみ、香りが空腹の腹を撫でた。


液体スープを入れ、かき混ぜる。少し乱暴に。

一口啜る。熱い。だが、それがいい。
この一杯は、どこかにまだ人間としての温度が残っている証だ。

「終わったら、また食おう」

氷室は容器をゴミ箱に放り、ジャケットを羽織った。
テーブルの上のP226を手に取り、マガジンを戻す。

街は眠らない。
そして、麺もまた、眠らせない。





冷たい都市の夜、アウトローと捜査官のはざまで揺れる男。
食事は儀式じゃない。戦う前に胃に突っ込む燃料だ。
それでも、そこにわずかな人間のぬくもりがある——それが、大沢在昌の世界だ。








カップ麺の作り方 

私は、ただ空腹だった。否、それ以上に、何かを待っていたのかもしれない。人のぬくもりだとか、救いだとか、あるいは、熱湯。


戸棚の奥で、ひっそりと佇むカップ麺。彼は、まるで世間に忘れられた詩人のように、沈黙の中に己の存在を秘めていた。


私はその蓋を、震える指先で剥がした。慎重に。まるで、恋文の封を切るかのように。



中から現れたのは、乾いた麺と、無言の粉末スープ、そして謎の小袋。ああ、誰かが私に「これは食べ物です」と囁いている気がした。

しかし私は問いたい、果たしてこれは食べ物なのか、それとも、孤独の儀式なのか。



湯を沸かす。やかんの中の水が、ぐつぐつと沸き立つさまは、まるで心の奥底で渦巻く後悔と同じ音を立てていた。


私は、それをそっと、麺の上に注いだ。蓋を閉じる。三分間。人は三分で変われるのか。私は変われなかった。



時計の針が、虚無を刻み、三分が過ぎた。私は再び蓋を開けた。そこには、しんなりとした麺が、ただ所在なげに横たわっていた。


粉末スープを溶かし、箸でかき混ぜる。まるで、生きる意味を探して底をさらうように。


そして私は、それを啜った。熱い。けれど、その熱ささえ、どこか遠く、他人のものであるかのようだった。



食べ終えた後に残るのは、容器の底の沈殿と、心の底の虚しさと、ただ、それだけだった。













カップ麺の作り方

午前一時三十四分。

女は出て行った。冷蔵庫には、ビールが一本、卵がひとつ、そして安っぽいカップ麺がひとつだけ残されていた。

男はタバコに火を点けながら、その赤いパッケージを睨んだ。

「濃厚豚骨。馬鹿らしい名前だ」

中身をぶちまけた。乾いた麺、粉末スープ、小袋の液体スープ。
無駄に三点セット。どれも工場で量産された、味気のない兵隊だ。



ガスに火をつけた。青白い炎が立ち上る。やかんに水をぶち込む。

男はタイマーをセットしない。秒数は、感覚で覚えている。
戦場じゃ、音に頼る奴が先に死ぬ。

湯が沸く。
音は、小型拳銃の連射に似ていた。
「──悪くない」

麺に湯を注ぐ。勢いよく、迷いはない。
蓋を閉める。マグナムのスライドを戻すような、冷たい所作だ。


三分待つ。男はソファに腰を下ろし、銃の手入れを始めた。
銃も、麺も、手入れが命だ。

三分。ピタリと経った。
蓋を剥がす。立ち上る湯気は、銃撃戦の硝煙に似ていた。


液体スープをぶち込み、箸で一気に混ぜる。力強く、ためらいはない。麺を傷つけるのを恐れていては、戦えない。

ひと口、啜る。
熱い。だが、うまい。
化学調味料の暴力的な味が、喉を叩く。胃が火を噴く。

「──これで、また殺れる」

男は食べ終えた容器をゴミ箱に叩き込んだ。
そして、銃に弾を込める。
夜は、これからだった。

END




緻密なディテール描写、無駄のない短文、ハードボイルドな緊張感と暴力的なまでの生活感が、大藪作品の核だ。





カップ麺の作り方


窓の外は、雪が降っていた。遠くの山の端が白くかすみ、空と地とが一つに溶け合っている。私は、何も考えずに立ち上がり、ひとり台所に向かった。


白い手で、棚の奥に手を伸ばすと、カップ麺があった。艶のないその容器は、まるで初冬の朝に拾った貝殻のように、静かで、言葉少なげであった。


私は、やかんに水を汲み、それを火にかける。火の赤さがやかんの銀にうつり、あたたかい夢のように滲んだ。



水はやがて、音もなく沸き立ちはじめる。私は、蓋をそっと剥がし、乾いた麺を見つめる。その渦巻くかたちには、どこか人生のような、ひそやかな諦念があった。



粉末の袋を開け、ふわりと中身を振り入れる。わずかに漂うスープの香りに、私は幼い日の縁側を思い出す。母の膝に頬を寄せていた、あの冬のことを。



沸いた湯を注ぐと、湯気が立ちのぼり、窓辺の淡い光と交わった。私は蓋を閉じ、じっと時を待った。三分。

けれどその間に、雪は音もなく深まり、世界はまた一つ白くなったように思われた。




蓋を開けると、そこにはもう乾きではなく、やわらかさがあった。私は液体スープを加え、箸をひと差し入れて、静かに混ぜる。

香りがふくらみ、まるで記憶が匂いになって戻ってきたかのようだった。



一口すすったとき、胸の奥にわずかなぬくもりが灯った。それは人に言えるような幸福ではない。


けれど、言葉にならぬ慰めが、たしかにそこにあった。