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株式投資と新宿鮫。
犯罪と情報、都会の闇と人間の情。
群れることを拒んだ刑事が、数字の裏に潜む“欲望の暴力”を、
静かに、確実に追い詰めていく。
「株式投資」は単なる資産運用じゃない。
それは、都市という巨大な心臓の脈を読み、裏切りと誤算のタイミングでトリガーを引くことだ。
《新宿株(カブ)鮫》
第1章 ナイフとチャート
雨が降っていた。
梅雨でもないのに、やたら冷たい雨だった。
鮫島は警視庁生活経済課の資料を、誰もいない夜のデスクで読み返していた。
銘柄名と数字の羅列。だがその数字の奥には、明確な悪意の息遣いがあった。
「インフルエンサー型風説の流布――SNS発信→株価操作→急落→空売り回収」
若い刑事が言った。
「手口が、まるでギャンブルです」
鮫島は言葉を返さなかった。
それはギャンブルじゃない。
これは“狩り”だ。
仕手筋の名は「カミヤ」。
六本木にオフィスを構え、表の顔は「金融教育系インフルエンサー」。
だが裏では、未公開銘柄と不正情報の発信で数十億を短期で稼ぎ出していた。
彼は株価の動きを見ていない。
人間の動揺を見る。
投資家の不安と興奮、その欲望をAIと心理学で操作する。
それが“カミヤ・モデル”。
「奴のシグナルは午後9時、Twitter経由で発信される」
情報屋の女が言った。
その女は、どこか、晶に似ていた。
「たった一言、『◯◯、明日跳ねる。』それだけで翌朝、2000人が飛びつくのよ。思考停止してね」
鮫島は黙って、冷えた缶コーヒーを開けた。
「“明日跳ねる”か。跳ねた後、誰が地面に叩きつけられるかは書いてないな」
夜の新宿に戻る。
タワマンの最上階にあるカミヤの部屋。
そこに銃はない。
あるのは、ネットと数字と、人間の恐怖だけだ。それで十分だった。
だが鮫島は、その部屋に足を踏み入れた。
警察手帳も拳銃も使わない。
彼が持ち込んだのは、ただの「質問」だった。
> 「あんたが操ってたのは株じゃない。人間だな」
カミヤは笑った。
「人間なんて、金と恐怖でいくらでも動く。投資家も、刑事も、ね」
次の瞬間、チャートが崩れた。
ネットに流出した“誤報”、群衆の売り、AIの自動売却。
それはまるで都市の心臓が止まる音だった。
第2章 信用取引と失われた心臓
人が動くとき、そこに理由なんかいらない。
だが金が動くとき、人は必ず嘘をつく。
鮫島はそれを、血で知っていた。
世界は変わらない。変わるのは、誰が損して誰が儲けたかだけだ。
都市の脈動は続く、人間の欲望と恐怖とともに。
第3章 逆指値の罠
早朝6時、新宿南口。
ビルの壁に貼られた電子掲示板に、日経平均先物の数字が点滅していた。
落ちている。激しく。
その頃、新宿署生活経済課に一本の匿名電話が入っていた。
内容は一行。
> 「明日の朝9時、◯◯テックが暴落する。信用買いで殺されるぞ。」
それは警告だったのか、それとも誘導か。
この街では、情報そのものが武器になる。
鮫島は椅子を蹴り上げて立ち上がった。
資料の束を床に蹴飛ばしながらつぶやいた。
「またか……また“逆指値狩り”かよ。」
カミヤは仕組んでいた。
仕手株の急騰を演出し、個人投資家に買わせる。
多くは信用取引。借金で夢を見る、命綱のない高所綱渡り。
そしてある時間、AIで特定の価格帯にだけ売り圧を集中させる。
結果、逆指値(ロスカット)が連鎖的に発動し、チャートは地を這う。
焼ける。逃げられない。
モニターの向こう側で、何百人という素人が破産する。
だが彼は、空売りで静かに笑う。
その音はしない。
だが、何より凶悪だった。
第4章 終値の向こうに
夜の新宿、コマ劇場跡地前。
カミヤの部下、証券ブローカーの男が何者かに刺された。
金ではない。裏切りの処理だった。
「泳がせてるつもりが、逆に仕掛けられてたんだ」
情報屋の女――通称「エコノミカ」――が、薄く笑って言った。
彼女の手首にはApple Watch、だが目は昭和のギャンブラーのそれだった。
「株価は嘘をつかない。でも人は、いくらでも嘘をつける」
その夜、鮫島はついにカミヤのオフィスへ踏み込む。
何もなかった。
ただ、ログイン中の証券口座画面が、光っていた。
画面の中央に、約定履歴が浮かんでいる。
> 【売】◯◯テック 40,000株 @ 1,220円
【買戻】◯◯テック 40,000株 @ 870円
利益:約1億4000万円
横に添えられていたメモ――手書きの一言。
> 「人間なんて、チャートにすらなれねぇ。」
鮫島は画面を見つめながら、コートの襟を立てた。
銃を出すまでもなかった。
だが、何かを殺した気がした。
株とは何か?
希望か、地獄か、人間の心拍か。
新宿の夜は、また始まる。
第5章 板情報とインサイダーの女
新宿・ゴールデン街の一角、かつて芸人が寝泊まりしていたボロいバーで、鮫島は**“板の魔女”**と呼ばれる女と会った。
名は志摩(しま)レナ。
元証券会社ディーリング部のエース。
今は、トレードの板情報だけで日銭を稼ぐ孤高の女だった。
彼女の手元には、リアルタイムで変動する3画面モニター。
買い板、売り板、約定履歴――数字の流れに彼女の指が沿う。
それはもはや、楽器演奏に近かった。
「この銘柄、明日の10時7分、売り板が崩れるわ」
「根拠は?」
「見てないの? 売り圧が機械的に10万株単位で移動してる。
AIにしては早すぎるし、人間にしては正確すぎる」
レナの指が止まった。
「これは、“計画されたインサイダー”よ」
彼女が見ていたのは、環境関連の新興株・R-Lab社。
政府系ファンドとの契約締結を“装った”情報が、すでにSNSで広まりつつあった。
だがそれは偽情報。
カミヤの手口に似ていた。
だが、それよりもずっと巧妙で、ずっと冷たい。
第6章 損切りする魂
事件の全貌が見え始めた。
だが、そこに**「国家の名前」**が絡み始めたとき、鮫島はひとりで動けなくなった。
警察庁上層部が言う。
> 「カミヤは、もう“個人”じゃない。
彼の背後には、外資系ヘッジファンドと、日本の某与党議員がついている」
つまり、カミヤは泳がされていた。
SNSと投資家心理を研究する**「実験装置」**だった。
株価を操作し、世論を動かし、法整備を進めるためのショックドクトリン。
レナがつぶやく。
「……人を損切りする時代なのよ、今は。
『株式市場で負けたのは自己責任』って言えば、誰も血を流した理由を問わない。」
夜、鮫島は再びカミヤに接触する。
今度は東京湾岸の秘密のクラブハウス。
セキュリティは民間傭兵、全員元・陸自特殊部隊。
銃声はない。
だが、そこにはもう国家の論理があった。
「君が追ってるのは“犯罪”じゃない。
未来を調整する経済工作だよ。
邪魔をするなら、君ごと“損切り”される」
カミヤはそう言って、ワインを飲み干した。
赤い液体の向こうで、チャートがまた一つ跳ねた。









