第10話
20年の前のあの日、萌子さんといるだけで、僕の心は満たされた。
あんな気持ちは初めてだった。
こんな綺麗な人とコーヒーを飲みながら楽しく話しが出来るなんて、僕にとっては奇跡のようだった。
萌子さんの話しはおもしろかった。
僕たちは2人とも1968生まれだということを確認しあった。
僕の誕生日が8月8日だと告げると札幌大学病院で、日本で初めて心臓移植が行われた日だと説明してくれた。
「よく知っているんだね」
僕は感心して、萌子さんを見つめた
。
萌子さんはちょっとはにかんで、僕を上目使いで見返した。
僕はその萌子さんの黒い瞳にどぎまぎした。
萌子さんの誕生日は5月16日だと教えてくれた。
「十勝沖地震があった日よ」
僕は「知らない」と言った。
萌子さんはくすっと笑うと
「本当はね。私、予定日が23日だったの。でも、地震で、母親がびっくりして産気づいたんだって」
ーー時間が止まればいい。
こんな僕の思いをよそに、萌子さんが腕時計を見やった。
それににつられて、僕も腕時計を見る。
5時を過ぎていた。
「私、帰らなきゃ」
僕は不意をつかれ、慌てた。
「夜は駄目ですか?飲みに行きたいと思ったのだけど」
「ごめんなさい」
萌子さんは柔らかく断った。
しかし、僕はこのまま別れて、終わらせる気持ちにはなれなかった。
僕は当然のごとく、萌子さんの電話番号を訊いた。
まだ、携帯電話などは庶民に普及されていない時代だった。
萌子さんさんは少し考えているふうな顔をした。
「私から連絡するから、秀治君の電話番号を教えて」
僕は戸惑った。
萌子さんは軽く笑うと
「私、結婚しているの」
堂々と宣言したのだった。
「ええっ!それ、まずいでしょ」
僕の正直な気持ちだった。
不倫騒動に巻き込まれたら、大変なことになる。
「怖じ気づいたの?」
そんな僕を見透かしたように、萌子さんは探る目をした。
「いや、そういうんじゃなくて」
僕は口ごもった。
未来のない恋はしたくないと真剣に思ったのだ。
先のない恋愛をしても惨めになるだけだ。
僕には人妻を奪ってまで、この恋を成就させる自信もなかったし、勇気もなかった。
「じゃあ、さよならね」
そういうと、伝票を持って立ち上がろうとした。
「待って」
咄嗟に僕は小さく叫んでいた。
「いいのよ。私が誘ったのだから、ここは私が払うわ」
萌子さんがコーヒー代の支払いのことで、僕が「待って」と言ったのだと勘違いしたようだった。
「違う」
即座に僕は否定した。
僕は自分で自分を持て余した。
自分でも何を言いたいのか、何をしたいのか分からなかった。
ただ、まだ萌子さんと一緒にいたかったのだ。
その一心の思いから、自分でも予期しない言葉が口から出てきてしまった。
萌子さんは椅子に座り直した。
僕からの言葉を待っているようだった。
でも、上手く言葉が出てこない。
愛しても寄り添えないのなら、どうしようもないのだ。
しかし、自分の心とは裏腹に
「結婚しているのに、夫以外の人とお茶を飲むのですか?」
僕は責めるような言い方になってしまったことに、少し後悔をした。
「傷つけてしまったのなら、ごめんなさい」
萌子さんは切なそうな顔をした。
「ただ。。。」
そのまま、萌子さんは黙り込んでしまった。
「ただ?」
僕は続きを促した。
「軽い気持ちではなかったのよ」
では、どういう気持ちかと、聞き出したかったが、僕は言葉を飲んだ。
弄ばれたのであれば、僕は惨めになるだけである。
「私、一人でいるのが怖かったの。
だから、秀治君を本屋で見かけた時、声をかけてしまったの」
萌子さんは真剣な顔で、僕に訴えるように言った。
「言い訳に聞こえる?」
僕は思わず首を横に振った。
僕はその時、この恋が例えかりそめでもいいと思った。
ーーこの瞬間を離してしまったら、絶対後悔してしまう。
萌子さんの背に衝立があり、その後ろに緑の鉢植えが置かれてあった。
こちら側に4つほどのボックスがあった。
客はいなかった。
ーー目の前の萌子さんを抱きしめたい。
僕の恋心は走り出していた。
止められない。
僕は萌子さんの顔に身を乗り出して、静かに顔を近づけると、口づけをした。
僕の耳も目も、回りのことから全て閉ざされていた。
元旦の夜、病院から一人でマンションに戻った。
実亜がいないのは寂しかったが、いつの間にか、萌子さんのことで頭がいっぱいになっていた。
ネットで、「コウゲンビョウ」を調べようと思っていた。
僕は、今、完全に萌子さんのことしか見ていなかった。
あの20年前のように。
いや、実はずっと続いていたのだ。
愛の暮らしさえしていない萌子さんに心惹かれ、老いても一緒にいようと約束した実亜を見失っていた。
でも、そのことで、僕に罰が下ることなど考えもしなかった。
続く
最後まで、読んでいただきありがとうございます。
コメントをいただけたら、嬉しいです。
愛川るな
小説(ミステリー) ブログランキングへぽちっとしてくださいね。