第26話
僕の腕の中に萌子さんがいた。
「秀治君、ありがとう」
そう言って、萌子さんは僕の首に腕を絡めて抱きついてきた。
僕もきつく萌子さんを抱きしめた。
20年ぶりに萌子さんと肌を合わせたことで、僕の思いを確信することができた。
僕の人生で愛する人は萌子さんただ一人なのだ。
「秀治君、上手になったね」
萌子さんは顔を上げて僕を悪戯っぽい目で見た。
萌子さんは、時々、こちらが慌ててしまうことをさらりと言う。
「だって、20年経ったのだもの。僕だって、成長するさ」
萌子さんはまた僕の胸の中に顔をうずめて「フフフ」と小さく笑った。
「20年前、秀治君、『あなたを喜ばせたい。でも、どうやったらいいか分からない』って。可愛いかった」
「勘弁してくれよ」
このまま、ずっと続いてくれるのなら、もう何もいらない。
僕は萌子さんをもう一度きつく抱きしめた。
先に体を離したのは萌子さんだった。
「秀治君、実亜ちゃんを守ってあげて。多分、実亜ちゃんは実刑になるだろうけれど、最低の3年だと思う」
僕は動揺を隠せないまま、
「萌子さんは?萌子さんはこれからどうするの?」
「私のことはいいの。大丈夫よ」
「…だけど」
僕は萌子さんを手放したくなかった。
「私、こう見えても強いのよ」
萌子さんは僕を大きな瞳で捉えた。
現実が蘇ってきた。
僕は人を殺したのだ。
しかも、今、こうしてベッドの中で愛し合ったばかりの萌子さんのご主人を。
「秀治君、私、人生の中で一番愛した人は秀治君ただ一人よ」
萌子さんは僕に向き直ると、真剣な眼差しを向けた。
「一番、愛しているからって、結婚出来るものではないわ。それに…」
萌子さんはしばらく間をあけた。
僕はそのまま、待っていた。
「愛する者同士が結婚したって、その愛が永遠に続く訳ないし」
僕は何も言わずに、萌子さんの話をそのまま待っていた。
「秀治君と私だって、結婚しないから、愛し合っている錯覚をしているのよ」
「錯覚?」
「そうよ。結ばれないから燃えるのよ」
「萌子さんと僕が結婚しても、上手くいかないということ?」
今、僕は萌子さんを独占したいと思っている。
この合法的な方法が結婚だ。
「上手くいくかどうかは分からない。でも、いずれ、こんな風には愛し合えない」
そして、萌子さんは悲しそうにつぶやいた。
「私、病気だし」
「そんなこと、僕は構わない」
「秀治君、私の肌、随分と黒くて汚くなったでしょう」
「仕方がないじゃないか。病気でそうなったんだ。僕は気にしない」
そう言って、僕は萌子さんに手を伸ばし、抱き寄せると抱きしめた。
「同じ家に住んでしまうと、私の皺の出来た顔も、崩れた体の線も嫌になってくるものなのよ。それに、ヒステリーを起こしたり、不機嫌になったりして、喧嘩するようになるわ」
「だって、そういうのを見せ合って、許し合うのが夫婦だろう」
萌子さんは僕から離れると、くるりと背中を向けた。
「秀治君、お別れよ」
「萌子さん…」
「あなたには、私のきれいな面だけを見せてお別れしたいの」
萌子さんの会っすすり泣くような声が聞こえてきた。
「お願い。帰って」
僕にも分かっていた。
萌子さんには不安定な愛だから、胸がしめつけられるような緊張が心地よく感じられていることを。
実亜の天真爛漫さや無邪気さに振り回され、時々、疲れてしまい苛付いたときも、心の片隅にある萌子さんの残像を見て、気を紛らすことが出来ていた。
僕はそろりとベッドから出ると、服を身に付けた。
「萌子さん、僕帰るよ」
「うん。法廷で会いましょうね」
それっきり、萌子さんはベッドの中で黙ってしまった。
僕はもっと、甘い情熱的な別れをしたかったが、萌子さんはもう割り切っているようだった。
僕は萌子さんの毛布の膨らみをしばらく、眺めていた。
いつまでも、女々しい自分に微苦笑をした。
「秀治君、私、秀治君との思い出があれば生きていけるから」
「でも、僕は萌子さんのご主人を」
「生きているあなたを私は選んだのよ」
僕はその場に立ちすくんだまま、なおも萌子さんの体の膨らみを見ていた。
「さようなら」
萌子さんはやはり、泣いていた。
僕は静かに部屋を出て行った。
外はもう暗かった。
雪は降っても確実に溶ける雪だ。
夜でも雪が溶けていた。
続く
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愛川るな
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