第8話
腕時計は8時を過ぎたことを教えてくれた。
いつまでも、地下鉄のベンチに座っているわけにもいかない。
僕は帰ることにした。
西に連れて行ってくれる電車のホームに、僕は向かった。
大晦日の美容室は忙しい。
実亜を見舞うことも出来なかった。
病院ではお節料理が、それなりに豪華に出たらしい。
写メールが送られてきていた。
メール文にも、萌子さんのことが書かれていた。
僕は仕事が忙しかったので、考えないですんでいた。
コンビニでお節料理のものを適当に買ってすませた。
2012年をあっけなく迎えた。
僕は毎年そうだが、元旦はすっかり疲れているので、いつも、昼過ぎまで眠っている。
実亜もそれは承知しているから、見舞いに行かない僕を理解していた。
ただ、メールは届いていた。
「萌子さんのご主人が病院に来たのだけど、萌子さんの若い時と私がそっくりだっていうの」
僕は、『萌子さんのご主人』というところで、隠れてしまいたくなり、思わずベッドの中に体をうずめた。
知らないこととはいえ、僕は、萌子さんのご主人からすれば、決して許すことの出来ない男だ。
萌子さんが打ち明けない限り、知られるはずはないが、なぜか怯えた。
萌子さんと知り合った1991年はちょうどバブル崩壊したばかりだった。
茶髪にロン毛が流行っていた。
萌子さんは緑色の艶やかな髪を僕に切らせた。
本屋で偶然会って、お茶を飲んだあの日、僕は萌子さんに訊いてみた。
僕に髪を切らせた理由を。
「あなたが気に入ったから」
萌子さんはいたずらぽっい目をした。
今、思えば、萌子さんは僕の気持ちをもて遊んでいたのかも知れない。
僕はそれまで、女性と真剣に恋愛したことはなかった。
恋人と呼べるような女性もいなかった。
朔の恋愛話を聞いているだけで、満足していたようなところもある。
「いいか、秀。本当に女を愛しているかどうかは、女に骨付きチキンを食べさせるんだ。かぶりついている時のひん曲がった顔を見て、可愛いと思ったら愛しているといえる。幻滅したら愛してないといえる」
朔はいつも、女に対して、そうやって自分の気持ちを確かめると、言っていた。
僕は鵜呑みにしていたわけではないが、いつか試してみたいと思っていた。
でも、僕は朔の言っていることは違うと思った。
萌子さんが骨付きチキンを食べている顔が、どんな顔になろうと、愛していると実感できたからだ。
僕はそろそろとベッドから這い出した。
元旦に雑煮を食べるわけでもなく、
いつものようにトーストを食べた。
萌子さんとの数えるほどのデートで、僕はコーヒーを飲んだが、それほど、好きというわけでもなかった。
壁の時計を見ると2時だった。
実亜に会いに行こうと思った。
そして、萌子さんに。
僕は萌子さんの病気が何の病気なのか、本当のことをいうと、とても気になっていた。
それを実亜に聞き出そうと思った。
実亜に後ろめたさを感じながらも、20年前の萌子さんの蠱惑的なまなざしから、放たれない僕がいた。
そのことが、取り返しのつかないことになることなど、この時の僕は知る由もなかった。
続く
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