第26代天皇 継体(けいたい)天皇(53) 在位期間507年~531年 なお、「(53)」とは、「今上天皇の直系のご先祖様で、直系53代遡る」という意味です。
日本書紀では大迹王(おおどのおおきみ)。古事記では袁本杼命(おおどのみこと)。『上宮記』逸文※では乎富等大公王(おおどのおおきみ)。
※じょうぐうきいつぶん。 『上宮記』は記紀よりも古く7世紀ころ成立した歴史書で、現存しない。13世紀後半(鎌倉時代後期)の日本書紀注釈書『釈日本記(しゃくにほんぎ)』の中に引用された文が存在し、間接的に伝えられている。この文が『上宮記』逸文と呼ばれている。
応神天皇の5代孫。
下記は『上宮記』逸文に基づく系図。記紀にこの部分の系図はない。
応神天皇(58)
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若野毛二俣王(わかぬけふたまたのおおきみ)(57)
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意富富等王(おおほどのおおきみ)(56)
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乎非王(おいのおおきみ)(55)
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彦主人王(ひこうしのおおきみ)(54)
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乎富等大公王(おおどのおおきみ=継体天皇)(53)
皇后は仁賢天皇の娘・手白香皇女(たしらかのひめみこ。武烈天皇の妹or姉)。
日本書紀では450年生まれ、古事記では485年生まれ。越前(現、福井県)に住んでいたが数え58歳(日本書紀)or数え23歳(古事記)で即位し、各地を転々として19年後の526年に大和に入った(磐余宮[いわれのみや])。
皇親系統も離れた人物で、これ以前とは別の継体王朝の祖という説もある(三王朝交替説)。継体新王朝説を採用しても現皇室は2024年(令和6年)の時点で1517年の歴史を持ち現存する王朝の中では世界最長。
512年大伴金村(おおとものかなむら)の外交政策失敗(高句麗によって国土の北半分を奪われた百済から任那[みまな]4県割譲要求があり、賄賂と引換えにこれを承認)。
527年新羅から任那を守るため近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)を派遣しようとするが、筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)が新羅と通じ妨害、528年磐井の乱。鎮圧した物部麁鹿火(もののべのあらかひ)&物部氏の勢力が増す。
日本書紀では531年数え82歳で崩御、古事記では527年数え43歳で崩御。
第27代天皇 安閑(あんかん)天皇 在位期間531年~535年
継体天皇(53)の即位前の子。宣化天皇の同母兄、欽明天皇(52)の異母兄。
即位が不明瞭な天皇で欽明天皇と並立・別王朝とする説もある。
第28代天皇 宣化(せんか)天皇 在位期間535年~539年
継体天皇(53)の即位前の子。安閑天皇の同母弟、欽明天皇(52)の異母兄。
即位が不明瞭な天皇で欽明天皇と並立・別王朝とする説もある。
538年百済から仏教伝来。
第29代天皇 欽明(きんめい)天皇(52) 在位期間539年(or531年)~571年
継体天皇(53)&皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の娘で武烈天皇の妹or姉)の嫡子。安閑天皇&宣化天皇の異母弟。
509年生まれ。数え31歳で即位。継体天皇が崩御した531年に数え23歳で即位し安閑天皇&宣化天皇と並立していたのではないかとも言われている。
子供のうち4人が天皇になった。皇后・石姫皇女(いしひめのひめみこ)が産んだ嫡子・敏達天皇(51)(子孫に天智天皇㊽など、現皇室まで続く)、母蘇我氏系の用明・崇峻・推古天皇。
540年大伴金村が外交政策失敗を糾弾され失脚し、大伴氏は没落。
552年百済から仏像と経文が伝来。蘇我稲目(そがのいなめ)&蘇我氏(崇仏派)と物部尾輿(もののべのおこし)&物部氏(廃仏派)が台頭・対立する。
562年新羅が任那を併合し任那滅亡。
数え63歳で崩御。
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(雑感)
今回のお題は「仏教伝来。仏教と言えばお寺、お寺と言えば、『お寺の紅葉は最高に綺麗』」です。
ホント、お寺と紅葉って、合いますよね。
良いですよねー。お寺の屋内からの眺めも素晴らしいですよね。
この風情、たまりませんよね。
もう、とにかく、お寺と紅葉、この組合せが好きなのです。