容子は子供の頃から歌が上手く学校でも有名でした。2人の弟も合唱でいつも選ばれていた。弟の泰生は美空ひばりさんの「悲しい酒」が十八番で色々な大会で優勝したそうです。
(悲しいことに泰生は50歳で脳腫瘍となり2年後闘病の末亡くなったのです。抗がん剤治療はあの頃は過酷でした。泰生は容子が事故に遭った時には静岡から駆けつけ、淳子と交代で病室に長く付き添ってくれました。気持ちの優しい弟でした。)
容子は中学卒業後、知人の紹介で警察学校の給食センターで働いていました。その間も歌が大好きなので色々なところで歌っていたようです。18歳の頃は 静岡の劇団にも入って少しは認められていました。素敵な芸者姿の写真が残っています。
20歳の頃は静岡の大きなクラブで歌手をしていました 。容子は母親似で美人です。 クラブへ来たお客さんが容子に惚れこみ、大阪の方でお店を出さないかと勧められた。容子はこの機会を活かしたいと決意して単身大阪へ行ったのでした。
大阪でスナックのお店を開き最初は雇われママさんでしたが、 やがて自分のお店を持つようになった。自分のお店を出すためには権利を買うためにお金がかかります。借金をしてのスタートでした。
20年余、お店のママとして歌の上手い美人ママには沢山のファンが居てお店も順調でした。結婚を一度もせずひたすら好きな世界で頑張っていた矢先、皆さんご存知の通り 、50歳過ぎの5月20日タクシーにはねられ脳挫傷という大変な障害を受け50日間意識不明が続きました。
その間静岡ではおきみさんが直腸癌再発で余命いくばくもない状態でした。義姉の事も知らされていたので自分が代わりたいと泣いていました。義姉には 生命力があったのでしょう。おきみさんと入れ替わるように 意識回復したのです。
最初は認知症状が酷かったのですが順調に回復し、ボケることもなく1月9日87歳の誕生日を迎え 今に至っています。
ところで話は戻りますが浩市は奨学金と容子さんからの仕送りを受けながら高校生活を送っておりました。 商業高校でした。高校では卓球部でしたが 弱い部活ながら5人の仲間の絆が強く長くお付き合いしておりました。今は5人の仲間も2人だけになりました。生存している2人もそれぞれ病を抱えています。
浩市が高校生の頃、相変わらず禮三は働きませんでした。 お君さんはその頃から 酒癖が悪くなっていました 。もともとお酒好きのおきみさんも外で飲むようになり、お酒を飲まない禮三は、 酔っぱらったおきみさんをいつも 自転車で迎えに行ったそうです。
おきみさんも 缶詰工場などで働き始めましたが 喘息があって長続きはしませんでした。 それでも浩市も就職しその頃からまともな生活できるようになりました。
浩市は段ボール会社に就職していた。その頃中外製薬が静岡支店に出来ることで地元採用を募集した。浩市も少しでもお給料が良いので応募しました。何と100人の中から合格し途中入社ができたのです。結婚時は中外製薬の社員でした。
薬剤師の免許もないので主に外交の仕事でした。皆さん大学卒の方ばかりの会社でしたが雰囲気が良く出張も多かった。そんな中 オイルショックという不況な時代になって会社は閉じることになったのです。地元採用であり高校卒と言うことで首になり突然無職になった浩市でした。
その後 前の会社で同僚だった方が経営している段ボール会社に入社することができました 。長く働きそのおかげで結婚10年目で焼津市に新居を持つことが出来たのです。ゼロからのスタートでした。
かやぶき屋根の農家を借りて住んでいたので、総2階の家は夢の様でした。静岡から 家族6人 犬2匹の引っ越しでした。浩行は小学2年生に、千夏は新入生に、恵子は幼稚園へと
新しい生活が始まったのです。 次回は淳子の実家中村家のお話になります。