人生色々あったとさ -3ページ目

人生色々あったとさ

第1部2014年書きはじめました。 結婚後の自叙伝です
第2部は義姉交通事故に遭い脳挫傷で失語症介護記録です。
その後は老いて思うことを書いています。

今回から淳子の生家 中村家の話をします。 あなた方にとっておじいさんの中村由雄ですが、子供の頃は質屋の一人息子でした。その頃はお金持ちのお坊ちゃんで 両親から 溺愛されていました。 頭が良くて小学校では 今で言う 成績表は全部甲だったそうです。

 

 昔は3段階で 甲,乙,丙 だったとか。 学校からは由雄をアメリカに行かせたいと言われたそうですが両親は一人息子なので断ったそうです。行っていたなら由雄の人生も変わっていたでしょうね。才能を活かす機会が失われたのですから。

 

その頃 コロナのようなスペイン風邪で沢山の人が亡くなりました。何と由雄の両親もこの風邪で亡くなったのです。まだ子供だったのと親戚も居ない由雄は突然一人ぼっちになりました 。それからが由雄の人生は一変し苦労が始まったのです。

 

それでも由雄は器用だったので真面目に働いた。 何かの縁があって あなた方のおばあさん タソさんと結婚しました。そのあたりをもっと詳しく訊いておけばよかったと思っています。

 

タソはいつも目が笑って優しくて由雄は一目惚れだったそうです。タソのことはまた後で書きます。波乱万丈の人生を過ごしたタソさんでした。

 

由雄は 缶詰工場の工場長として働いておりました。家はその社宅で家族は長く住んでおりましたが、その後 缶詰工場 が廃業したことで由雄は仕事を失いました。それでもその缶詰工場の関係先のお世話で 魚の仲買いという仕事をしていました。収入も多く家族は何とかまともな生活が出来ていました。それはお魚を仕入れて魚屋さんへ売るという仕事です。

 

北海道では その頃 ニシンが豊漁でした 。由雄はいつも 北海道へ行っていました。 淳子の記憶では いつもお土産を買ってくるので父が帰ってくるのが楽しみだった。 でも ニシンも不漁になり その仕事も続きませんでした。 それでも働き者の由雄は色々な仕事を探しては働いた。由雄は生まれつき目が遠視で戦争に行かずに済んだのです。戦争に行かなった禮三さんと同じです。

 

おきみさんはタソの妹です。そんな関係で戦後極貧状態と聞き、優しい由雄はリュックサック(昔のものは大きい)に沢山食べ物を入れて静岡へ向かったのですが、何と上野駅で盗まれてしまい手に提げていた袋だけ持って静岡へ行った話は何度も聞かされました。それでもスルメとかあったのでおきみさんはそれを売ってお米に換えたそうです。

 

あの頃は何時間も寝台列車に揺られて上野駅で乗り換える大変な時代でした。

 

由雄の楽しみは ねぶた祭りでした。 8月のねぶた祭りでは法被姿で あの大きなねぶたの運行をやっていました。 それは淳子にとっても自慢でもありました。近所の子供ねぶたは由雄が家続きの倉庫で作った。その頃は今のように派手ではなく町内でもねぶたを作って近所を子供達がラッセラ、ラッセラと練って回ったのでした。

 

由雄は朝風呂が好きで銭湯はいつも一番風呂でした。それが血圧をあげていたことに気が付かなった。 ある寒い朝、家で突然倒れたのです。血圧計もなく倒れた時の血圧は250にもなっていました。先生がびっくりしていました。淳子が高校生の時でした。

 

しばらく治療し普通の生活が出来るように回復しました。脳梗塞は2度目はほとんど動けないと聞いておりましたがやはり2度目は屋根の雪下ろしをしていた時突然倒れた。淳子はその頃は静岡に嫁いでいた。幸子も淳子も地元にはいなかったが了吾夫婦と雄三の兄弟が面倒を見てくれた。

 

それから7年間タソさんは家で看病し由雄は60歳でこの世を去りました。昔は今のような施設もなくお嫁さんや家族が倒れたお爺さんやお婆さんを介護していた時代でした。それが普通だったのでみんな頑張ったのですね。

 

 由雄はいつも穏やかな人で声を荒げることもなく4人の子供達は愛情たっぷり受けて育ちました。 続く