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人生色々あったとさ

第1部2014年書きはじめました。 結婚後の自叙伝です
第2部は義姉交通事故に遭い脳挫傷で失語症介護記録です。
その後は老いて思うことを書いています。

戦時中は淳子が四歳、 雄三は一歳 、兄了吾は九歳 、幸子 は12歳の4人の子供達で賑やかでした。その頃 アメリカは日本国中空襲を仕掛け、 焼夷弾を空から撒き散らしていたのです。寝ていると突然 空襲警報ウ~ウ~がなります。家族は電気に袋を被せて暗くし、父親が作った防空壕に避難しました。

 

警戒警報が収まるとまた家に戻ることができました 。子供ながらほっとしたのでした。

夏だったので防空壕の中にはハエがたくさん飛び回っていた。あの狭いところに一家6人が入っていたというのは子供たちが小さかったからでしょうね。空襲で家を焼かれた人も多かったのですが 中村の家は無事でした。静岡の方が空襲が酷かったようです。

 

お米は家族の人数に合わせて配給でしたが、そのお米だけでどの家も足りなかった。ただ子供達が ひもじい思いをしなかったのは、母が畑を作っていたのでジャガイモや、さつまいも、 トウモロコシなどいつも食べることができました。

 

その頃 リヤカー と言ってタイヤが4個ついた箱型の乗り物がありました。 幼い子供達はその中に乗って大人が引っ張り、戦時中は 町中から 山奥に皆で寄り添いながら避難していました。その頃の写真が残っています。

 

 やがて戦争が終わるという放送が近くの電電公社から流れ、皆、地べたに座って天皇陛下のお話を泣きながら聞いている様子は四歳の淳子も記憶にあるそうです。

 

終戦後アメリカ人の軍人が上陸してきました。子供達は怖いとは思わずアメリカ人が珍しく そして色々なお菓子や チョコレート、 ガムなどを貰ったのでした。子供と大人達の思いは違っていた。

 

戦争で沢山の方が亡くなりました。 由雄と、禮三は 体に 問題があって 出征しなかったのも家族には救いだったのかもしれませんが、あの頃は恥ずかしい事でもあったのです。

30代の働き盛りの一家の主や、青年は赤紙で戦争へ行った時代でもあったからです。

 

由雄は戦争の話を子供達にしなかったのは、どこか負い目を感じていたのでしょう。続く