私とプロレス 鈴木裕之さんの場合「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、プロレス団体GLEAT代表であり、リデットエンターテインメント社長・鈴木裕之さんです。

 




(画像は本人提供です) 


 
 
 
【インフォメーション】
2024.4.17(水)新宿FACE
LIDET UWF Ver.4
開場17:30開始18:30
ent.lidet.co.jp/event/
#GLEAT #LIDETUWF #LIDET 


 

プロレスとの出逢い、初めて好きになったプロレスラー、プロレス業界に関わる以前の経歴、プロレス業界に関わる経緯、SANADA(真田聖也)選手をマネージメントしたした時期の話、プロレスリングノアのオーナー企業になった経緯、ノア時代の苦悩、田村潔司選手が鈴木社長にプレゼンした時の話、GLEAT旗揚げ、LIDET UWF、GLEATの今後について…。

 

鈴木さんから興味深い話が次々と飛び出しました。

 

  

 

 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 鈴木裕之さんの場合
「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」
 
 
 
鈴木さんがプロレスを好きになったきっかけ
 
 





──鈴木さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
鈴木さん こちらこそよろしくお願いします!

──まずは鈴木さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。

鈴木さん 初代タイガーマスクの試合をテレビで見たことがきっかけですね。プロレスから目が離せなくなって好きになりました。

──実際にテレビでプロレスを見てどのような感想を抱きましたか?

鈴木さん 初代タイガーマスクの試合を見ると超人的な動きじゃないですか。同じ人間の動きにはとても見えなくて、漫画やアニメの世界のスーパーヒーローは実在するんだなと感じましたね。


──今の話をお聞きすると初めて好きになったプロレスラーは初代タイガーマスクということですね。初代タイガーの魅力はどこにあると思いますか?

鈴木さん プロレスは闘いなんですけど、勝敗ではなくエンターテインメントとして魅せられたのかなと思います。試合開始からフィニッシュまでずっと目が離せない試合をしてきたのが初代タイガーの魅力かなと思います。


──初代タイガーは1981年にデビューしてほとんど負けることなく1983年に突如、引退しました。これは結構、驚かれましたか?

鈴木さん そうですね。ポッカリ穴が開いて、大きな喪失感を感じました。

──ちなみにプロレスファンから離れたわけではなかったのですか?

鈴木さん そこは、アントニオ猪木さん、長州力さん、藤波辰巳(現・辰爾)さん、ハルク・ホーガンさんといった選手を応援するようになっていたのでプロレスを離れることはなかったです。
 
 
昭和の新日本プロレスは「理想の地球」をリングで体現していた


──プロレスの入口は初代タイガーだけど、次第に新日本の魅力にハマっていったという感じでしょうか?

鈴木さん そうですね。当時の新日本さんはラッシャー木村さん、キラー・カーンさんとか身近には間違いなくいない人たちがリング上で色々なドラマを展開されていて、目が離せなかったですね。

──カーンさん、木村さん、アニマル浜口さんは確実に一般社会にはなかなかいないでしょうね。

鈴木さん あと新日本さんには外国人レスラーも凄いメンツが揃ってましたよね。子供ながらも今で言うダイバシティ「理想の地球」をリングで体現したのが新日本プロレスだったと思います。リングに集結した超人たちが時には仲間に、時には敵になったりして、大河ドラマを繰り広げてましたね。仮に勝敗と優劣はついていたとしても諦めなければタイトルは狙い続けることができるわけで、続けていくことの大切さをプロレスは教えてくれました。


──「理想の地球」という表現は素晴らしいですね!よくよく考えるとIWGPのロゴにも地球が描かれてますよね。では初めての会場でのプロレス観戦はいつ頃ですか?

鈴木さん 実は16歳の時からプロレスやコンサート会場の警備や誘導員のアルバイトをしていたんです。だから観戦というより仕事でプロレス会場に入ってました。色々な会場でアルバイトしましたけど、一番インパクトが強かったのは1987年12月27日・新日本さんの両国国技館大会ですね。

──あの伝説となった両国暴動事件ですね!この事件については堀江ガンツさんがNumber webで詳しく書かれているので、読者の皆さんにはチェックしていただければありがたいです。https://number.bunshun.jp/articles/-/846451 
 
では殺伐としたあの現場にいたのですか?

鈴木さん そうなんです。私は警備スタッフとして、会場入りした長州力顧問のアテンドしたり、背が大きいというだけでリングサイドの警備をさせられたんですよ。最終的に暴動に発展するのですが、リングサイドに人が押し寄せたり、リングに物が投げ入れられたりする光景を間近で見てしまいました…。両国暴動事件は自分が今まで見てきたプロレス興行の中で一番ショッキングだったので、あれはトラウマになりましたね。

──それほどの衝撃だったんですか!

鈴木さん  今でも脳裏にフラッシュバックするほどのトラウマですから。消せない記憶ってあるんですよ…。「もう絶対に許さない!」という1万人の熱狂と暴動を見て、人の怒りのエネルギーって凄いなと感じました。警備員として現場にいて、とても会場から出られる気がしなかったですから。

──そこからプロレスとはどのように接していたのですか?

鈴木さん 社会人になってから天龍源一郎さんが抜けた後の全日本プロレスさんの興行をよく見に行ってましたよ。毎月、後楽園ホールか日本武道館大会を観戦してました。
 
 
 
「お金に振り回される人間ではなく、お金を振り回せる人間になりたい」


──ありがとうございます。では鈴木さんがプロレス業界に関わるまでの歩みをお聞かせください。

鈴木さん 高校を卒業して、コンサートやプロレス興行とかイベントの警備員を派遣する会社を起こそうと思って起業したのですが失敗して、父の勧めもあり約2年間イギリスに行ってました。

──イギリスから帰ってきてからどのような生活をされていたのですか?

鈴木さん 22歳で帰国してからもやはり社長になりたいという想いが途切れることがなくて、仕事をして行くなかで逆算して15年後の37歳には社長になろうと思うようになりました。広告代理店やパチンコホールで働いて、常に社長になるためのその人脈とか学びを得ていく日々を過ごしてました。32歳に今の会社に入ったんです。実はリデットエンターテインメントと(当時はエス・ピー広告)という会社は私が創業者ではないんですよ。

──そうなんですね!

鈴木さん 現在、創業者であるオーナーは引退されておりますが、2007年、37歳の時にリデットエンターテインメントの社長になりました。

──ちなみになぜ会社の社長になりたかったのですか?

鈴木さん 私の幼少期に『火曜サスペンス劇場』(日本テレビ系)とかサスペンス系ドラマを見ていると、お金を巡る身内の争いによる殺人事件が多かったんです。鈴木家も遺産とかお金についてシビアな争いがあったので、子供ながら「人はお金に振り回される」と感じたんです。だからお金に振り回される人間ではなく、お金を振り回せる人間になりたいなと思ったときに将来の進路は総理大臣か社長の二択しかなかったんです。


──それは究極の二択ですね!

鈴木さん 総理大臣になるには凄く清廉潔白じゃないといけないのかなと思っていたので、色々な挑戦をしてみたいという想いを抱いて、社長を志すようになりました。お金をコントロールできる立場、自分で使えるお金を手に入れるには社長になるしかなかったんです。子供の時に、お金による親の喧嘩とか家族の変化を見てきたので。

──以前、『ハゲタカ』というドラマで「誰かが言った。人生の悲劇は2つしかない。1つは金のない悲劇、そしてもう1つは金のある悲劇。世の中は金だ。金が悲劇を生む」という名言があったんですよ。

鈴木さん 本当にその通りだと思いますよ。お金は大事だなと痛感しましたね。
 
 
 
低迷期の新日本を支えたエース・棚橋弘至選手の凄さ
 


──あまり思い出したくないと思われる実体験を語っていただきありがとうございます。リデットの社長になられてからどのような経緯でプロレス業界に関わっていくのですか?

鈴木さん 一番最初は私がプロレス好きということを知った、弊社の専務が社員の時いきなり新日本さんに連絡したんですよ。

──なかなか無謀なことをされたんですね。

鈴木さん その電話に応対してくれたのが、今はサイバーファイトでノアを統括している武田有弘取締役だったんですよ。「広告の仕事を出せるかわかりませんが、来てみますか」と言ってくれて、そこから細いながらも新日本さんと広告の関わりができました。


──最初にプロレス業界に関わったのはやはり新日本だったんですね。

鈴木さん 当時の新日本さんは棚橋弘至選手が全力プロモーション活動で頑張ってましたね。チケットも買わせていただいて、弊社のクライアント様へご招待や、社員共々多くの興行を観戦してました。


──団体のエースとして低迷期の新日本を支えて見事に復活させた棚橋選手は今や社長です。棚橋選手が新日本の社長になられると思われましたか?

鈴木さん 将来は社長になる人だなと当時から思ってました。色々なことがあって新日本を辞めるタイミングがあったのに、棚橋社長は辞めずに実力と努力でのし上がってきて、試合後にはマイクで「愛してま〜す!」と拳を突き上げたんです。当初はブーイングも飛んでいました。でも、挫けることなくずっと「愛してま〜す!」を貫いて、途中からブーイングから歓声に変わり、自身のプロレスが完成されていくことによって、最終的には大歓声を呼んでみんなの心を掴んでいったんです。棚橋選手への反応が変わっていく瞬間を拝見していて、「いかなる苦境も信念を貫くことの大切さを教えてもらえましたし、この人はいずれ新日本を取りまとめていくんだろうな」と。

──そうだったんですね。当時の棚橋選手は全国津々浦々、一人で地方各地でプロモーション活動を展開していた時期なんですよね。

鈴木さん 私はよく覚えているのが、大阪府立体育会館第二競技場大会で棚橋選手のサイン会があったんですけど、誰にも囲まれてなかったんですよ。それでも挫けないで、大きな声をだして前を向いている棚橋選手の姿を見て「組織の流れを変えることができる人」と感じました。


──棚橋選手によると「疲れない」「落ち込まない」「諦めない」は「逸材三原則」だそうですよ。

鈴木さん 本当の「逸材三原則」に則って、有言実行された人です。「ファンを愛している」「プロレスを愛している」といくら言っても、それがきちんと多くの皆さんに伝わったのは棚橋選手の偉大さですよ。プロモーション活動も「休まずにどんどん入れてほしい」と言っていたという話を聞いたことがありますから。

──地方に関してはコミュニティFMまで出向いて宣伝活動をされたそうですよ。

鈴木さん プロモーション活動も精力的にされて、肉体も維持して、あれだけ激しい試合をしていた棚橋選手には本当に尊敬しかないです。
 
 
フリー時代のSANADA選手をプロデュース


──ありがとうございます。これは棚橋選手は喜ぶと思いますよ。新日本との懸け橋となった武田さんが退社されてからリデットに入社されますよね。

鈴木さん 武田さんは新日本さんを辞めてから違う仕事をされて2年ほど経ってから「もう一度プロレスに関わりたい」というお話があったんです。その頃のリデットは対企業として広告のお仕事をしてましたけど、対顧客としてエンターテインメントのお仕事をやっていきたいなと思いまして、武田さんに「プロレスを事業化してくれませんか」とお願いすると快く承諾してくれてその後リデットに入社していただきました。

──武田さんは低迷期の新日本を裏方として支え、団体の執行役員を務め、コンテンツ事業で復活の後押しをされた功労者ですよね。

鈴木さん 弊社でももの凄い活躍とかけがえのない財産をのこしてくれました。

──リデットに入社された武田さんと最初はどのようなことをされたのですか?

鈴木さん 当時、アメリカから帰国したSANADA(当時は真田聖也)選手とマネジメント契約を結びまして、「1年間、やれるところまでやってみよう」とプロデュースすることになりました。


──確かSANADA選手は当時、大日本プロレスを主戦場にしてましたよね。実際に関わってみて、彼の印象はいかがでしたか?

鈴木さん 大変申し訳ありませんが、当時の真田聖也選手を一プロレスファンとして見ていて、技術は凄いんですけど表現力がないなと思いました。でも実際に接すると奥行きがある方で、ファッションとか興味があることにはとことん深掘りして形にしていった印象がありますね。私たちはSANADA選手の導線を作っただけで、あとは本人が頑張って走ってましたよ。彼が主戦場にしていたのは大日本プロレスさんですが、そのひたむきさはものすごく好感をもてるプロレスラーだなと思いました。

──SANADA選手が参加していた頃の大日本はメンバーが強豪ぞろいで豪華だったんですよ。2016年に開催された『一騎当千』というリーグ戦には彼以外に、関本大介選手、佐藤耕平選手、岡林裕二選手、石川修司選手、浜亮太選手、鈴木秀樹選手と実力者が集結してましたから。

鈴木さん 大日本プロレスの登坂栄児社長もSANADA選手に活躍の場を快く提供していただいたので、本当にありがたかったですね。


──SANADA選手はそこから新日本に参戦されますよね。

鈴木さん あれはものすごく運がいいと思いますよ。新日本に参戦するまでの1年間は弊社が担当したわけですが、彼が会場に登場した時にあまり反応がなかったんですよ。そこから瞬く間に逆転してたんで、それはよかったなと思います。

──2016年4月10日に新日本・両国国技館大会で行われたオカダ・カズチカ vs 内藤哲也のIWGPヘビー級戦で内藤選手が率いるロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン(ロス・インゴ)のメンバーとして乱入したのがSANADA選手でした。実は解説の金沢克彦さんが驚いて「遂に来た!!」とちゃんと中継で彼についてきちんと補足してくれたので、映像を見た皆さんは「これはサプライズなんだ」とよく理解できたのかなと思います。

鈴木さん そうだったんですね。会場にいた時は「まだこのくらいなんだな」と言う感じだったんですよ。

──乱入したSANADA選手がラウンディングボディプレスやスカルエンド(胴絞めドラゴンスリーパー)を出してから観客から大きな反応があったような気がします。

鈴木さん いづれにせよSANADA選手はロス・インゴに入ったことが、その後のプロレスラー人生を激的に進化させたと思います。
 


なぜプロレスリングノアのオーナー企業となったのか⁈


──そこから次はどのような形でプロレス業界と関わることになるのですか?

鈴木さん 東京愚連隊興行やメキシコAAA日本公演に携わりまして、そこからDDTの新人育成ブランド『DNA』にお手伝いをさせていただきました。私としては『DNA』を預かってずっと運営させていただきたかったですが、当時の私はまだ力不足で目算が外れたところがありました。なので3~4ヶ月の関わりで離れる事となりました。

──確かにリデットが運営に関わっていた『DNA』は短かったですよね。

鈴木さん そこから弊社顧問である長州力の興行を4度開催させていただいて、2018年12月からプロレスリングノアの経営に携わることになりました。

──2018年2月28日、鈴木さんが社長を務めるリデットがノア・グローバルエンタテインメント株式会社の株式75%を取得して子会社化。そこからリデットがノアのオーナー企業となりました。なぜ、ノアを子会社にしたのですか?

鈴木さん 知人のご紹介で仲田龍さん(ノアで取締役統括本部長やゼネラルマネージャーを務めた方舟の参謀)が存命中の頃からノアとの接点は少しずつあったんです。仲田さんからも色々とお話しはあったものの形にはならず・・・当時、ノア社長・不破洋介さんからノアを引き継がせていただきました。私としてはひとりの選手のマネジメントからスタートして、単発興行、数か月だけど定期興行もやって、今度はメジャー団体の経営に関わる機会が目の前にあって「是非やってみたい」と即決させていただきました。

──思い切った決断をされましたね。

鈴木さん 武田さんから「本当にお金がかかるけど大丈夫ですか」と言われましたね。私としてはノアの経営に関わることで、団体を復活させることは難しいかもしれないけど、下げ止めをできる自信はあったんです。


──そうだったんですね。ノアを子会社にした当時のノアはどのように感じてましたか?
 

鈴木さん もう今日を生きるのに精一杯で明日がない会社でした。税金や年金とかもお支払いできていないという逼迫していて、企業として体を成してない状態ではありました。しかし、当時の全選手、全社員、誰よりもファン皆様から三沢光晴さんの旗揚げした団体を遺したいという強い志は感じ取ることができ、それが唯一の希望となりました。

──もしリデットがノアに手を差し伸べなければ、そのまま倒産という可能性はあったのですか?

鈴木さん ギリギリのタイミングではあったんですが、ノアだったら誰かが買ったと思います。出逢いさえあれば「ノアの経営に関わりたい、三沢光晴さんの旗揚げした団体を遺したい」と手を挙げる企業や個人の方はいたのではないでしょうか。但し、莫大な資金が必要なため中継ぎのような形でどこかの企業がお金を出して使い切って終わって別の企業に譲渡されていくという状態で、団体の生命を繋いでいくような形でノアは残ったかもしれません。


(第1回終了)