私とプロレス 木村光一さんの場合「第3回 蜜月と別離」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。




(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん、事務所ブレーンとして関わった猪木さん、そして今率直に感じる猪木さんへの想い…。

元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!




私とプロレス 木村光一さんの場合「第3回 蜜月と別離」


 


取材対象としての魅力は猪木さんがダントツだった

 
──ここからは木村さんには取材対象として猪木さんについてお聞きします。実際に取材をしてみて猪木さんの印象はいかがでしたか?

木村さん 僕はプロレスライターでもスポーツライターでもないので、これまでプロレスラーや格闘家だけじゃなく、アスリート、芸能人、芸術家、作家、学者、政治家等々あらゆるジャンルの有名人や著名人に会ってきました。これはその経験をふまえた上での結論なのですが、取材対象としての魅力は猪木さんがダントツ。オーラが桁違いでした。自分の憧れの人という特別な感情を大幅に差し引いても、他の方々とは比較になりません。

──さすが、「20世紀のスーパースター」アントニオ猪木さんですね!

木村さん 猪木さんとは取材以外の世間話やビジネスに関する会話までトータルすれば数百時間話をしているにもかかわらず嫌な思いを味わったことは皆無でした。

──どの辺が他の取材対象とは違いましたか?

木村さん 猪木さんのインタビューはテーマによってはかなりハードルが高かったんです。とくにプロレスの話。事業や環境問題のことならいくらでも雄弁に話してくれるんですが、それがプロレスや格闘技についての質問になると短い答えが返ってくるだけですぐ別の話題に変えられてしまう。猪木さんに何度かインタビューした記者や編集者にもたしかめましたが、みんなそれで困ったと言ってました。

──猪木さんはプロレスや格闘技に関してはあまり話をしたがらないというイメージはありますね。

木村さん これは私の推測ですが、猪木さんはアリ戦のあとの苦い経験から「どうせ話をしてもわかんねぇだろう」とその点についてはずっと心を閉ざしていたのではないかと。なにしろ全世界から一斉にバッシングを受けたんですから。最近になって猪木・アリ戦の評価は手のひらを返したように一変しましたが、僕が取材していた95年から2005年の頃でもあの一戦の評価は定まっていませんでした。それに相変わらずプロレス八百長論も根強かったので、もう話すものいいかげんめんどくさかったんだと思います。


なぜ、木村さんは猪木さんからプロレスや格闘技の深い話を聞き出すことができたのか?


──しかし、木村さんはその時期に猪木さんからプロレスや格闘技に関するかなり深い話を聞き出されています。いったいどうやったんですか?

木村さん プロレス記者やマスコミの取材者は、その後の猪木さんとの付き合いもありますから空気を読んで話題を変えるしかなかったんだと思います。猪木さんが話を逸らしたらそれ以上は訊かないという暗黙の了解があったようです。しかし、僕はそもそもプロレス業界でもなければマスコミの人間でもなかった。いわば部外者。しかも猪木さんにインタビューするというそのためだけにいきなりライターに転身したという〝どこの馬の骨かわからない奴〟でした。したがって「この後、二度と話を聞く機会はないかもしれない」という思いもあって引き下がれなかったんですよ。

──危機感があったからこそ踏み込んで質問されたのですね。

木村さん だから僕も最初ははぐらかされましたが、それでもしつこくプロレスや格闘技に関する質問をし続けていくうち、さすがの猪木さんも呆れたんでしょうね、重い口を開いてくれるようになったんです。会う度に根掘り葉掘り質問するものだから、一度、「これはインタビューじゃなくて検察の取り調べだな」と苦笑いされたこともありました(笑)。

──ハハハ。事情聴取をされた気分だったんですね!

木村さん いま思えば、たしかに相当しつこかったし、あの猪木さんの言葉は警告だったのかもしれません(笑)。

──でも、木村さんはプロレス村の部外者だから暗黙の了解も関係なかったと。

木村さん はい。多分、僕の質問の大半はタブーだったんじゃないかと思います。一度、猪木さんがその場にいた新日本の永島(勝司)企画部長に「これ、どこまで答えていいのかなぁ」とあきらかに困った素振りを見せたこともありました。でも、そのうち「なるほど、そう来たか」と面白くなってきたみたいで。猪木さんはプロレス界の象徴として絶対に夢を壊すような発言はしない方でしたが、それでもギリギリの答えを返してくれるようになりました。



蜜月期だからこそ味わうことができた猪木さんのフェイスロック


──猪木さんに技をかけてほしいとリクエストしたこともあったそうですね?

木村さん フェイスロックのことですね。一時期まで新日本の試合で必ず使われていた基本技の一つで顔面の急所を手首の硬い骨で痛めつける技です。この技の話になったとき「理屈ではわかるんですが、どういう痛みなのかイメージできないんです」と僕が言ったところ「ちょっとそこに座って」と猪木さんが立ち上がり、背後に回って僕の頬骨に手首の内側をあてて軽く顎を頭のてっぺんにのせた。そしたら何が起こったと思います?

──わかりません、いったいどうなったんですか? 

木村さん 僕の上顎と下顎が逆方向に捻じれて外れそうになったんです。

──そうなんですか!!

木村さん しかも猪木さんはまったく力を入れていなかった。もし、ちょっとでも力を込めていたら完全に僕の顎関節は破壊されてました。あれは人生で初めて味わった痛みでした。

──フェイスロックって本当はそんなにすごい技なんですか…。

木村さん それ以来、プロレスを見る度にフェイスロックに注目するようになりましたが、でも、猪木さんのそれとはあきらかに別モノなんですよ。多分、ほとんどのレスラーは形だけで本当のかけ方を知らないんじゃないでしょうか。

──貴重な体験をされましたね。

木村さん ええ。僕は自分の中のケジメとして猪木さんからサインも貰ったことはないんですよ。でも、あのときのフェイスロックの痛み。あれが僕にとってはいちばんの宝になってます。



猪木さんに取材すると元気になる!?

        
──ところで木村さんは『闘魂転生』という書籍を出されていますが、その版元のKKベストセラーズさんは不定期に発売していたプロレス雑誌『プロレス王国』の発売元でしたよね。

木村さん はい。平子保雄編集長にはずいぶんお世話になりました。

──確か1996年発売の『新日本プロレスSUPER BOOK プロレス王国特別編集』の企画で猪木さんと橋本真也さんのスパーリングが行われていました。木村さんはそれも実際にご覧になられたんですか?

木村さん いえ、その企画には関わってなかったので一読者として記事を拝見しました。

──猪木さんが上になって掌底を見舞ったり、猪木・アリ状態で橋本さんがヒザ十字固めに移行したり、途中から猪木さんが「ポイントがズレている」とヒザ十字を橋本さんに指導したり、「髙田延彦には極まったかもしれないが、俺には極まらないぞ」と三角絞めをかけさせたり、魔性のスリーパーを伝授したりと、スパーリングと技の伝承も兼ねた内容でした。最後まで猪木さんが元気だったのに対し、橋本さんは鼻血を出して疲弊している印象を受けました。

木村さん 現場にいた平子編集長によると、橋本選手はスパーリングが終わってから「あのおっさん何考えてんだ。何、本気になってんだよ」と怒ってたとか。


──それは橋本さんらしいコメントですね!


木村さん ですね。でも、そのあたりの受け止め方が橋本真也選手の甘さだったんじゃないでしょうか。猪木さんの方はスパーリングの前からコンディションも調整して準備していたそうですから。


──他に猪木さんの取材をしていて印象に残っていることはありますか?


木村さん いろいろありすぎてどれを話したらいいか(笑)。そう、猪木さんの取材をすると大抵の場合、終わった後は元気になるんですよ。でも、猪木さんの調子が悪い時にあたると、どうやらこちらの元気を吸い取られてしまうみたいで、体調を崩してしまうことがありました。


──えええ!


木村さん 自分だけなのかと思って『プロレス王国』の平子編集長に聞いてみたら、やっぱり猪木さんの取材後に具合が悪くなって寝込んだことがあると言ってました。


──つまり、逆に猪木さんはどんなに調子が悪くても人に会うことによって元気を取り戻してたと。


木村さん どうもそうみたいで。ただこちらはたまったものじゃないですよ。気を吸い取られるんですから(笑)。まあ、何度か海外などで猪木さんと数日間一緒に過ごす機会がありましたが、そういうときの猪木さんはまたエネルギッシュで、こっちまで元気を注入してもらってましたけどね。 
       

   
──「猪木が笑えば、世界が笑う!」「元気があれば何でもできる!」を体現してますね!



木村さん まさにそう。だから猪木さんにはいつでも元気でいてもらわなきゃいけなかったんです。 

──猪木さんにはスピリチュアルな力があったんでしょうか?
 
木村さん どうなんでしょう。でも、たしかに猪木さんの引退試合前の沖縄合宿に同行させてもらったときにも不思議なことがありました。タクシーに乗っているとき、隣の猪木さんに「ちょっと手を出してみな」と言われたんで手を出したんです。そしたら猪木さんが僕の手の甲の上に手をかざしたとたんに体の内側が熱くなって。「何か感じる?」と聞かれて「熱いです」と答えると「そうだろ」と。信じられないかもしれませんが、これは本当の話です。
 

海外同行時の猪木さんとのエピソード


──さきほど木村さんは海外にも同行されていたという話がありましたが、そのときのエピソードをお聞かせください。

木村さん 猪木さんとはロサンゼルス、グアム、タイ、バングラデシュにご一緒させていただいたんですが、世界中どこへ行っても必ず誰かが寄ってくるのには驚きました。日本人だけでなく、あらゆる人種の外国人が握手やサインを求めてくる。また猪木さんはそれを絶対に断らない。なのでずいぶん僕が記念写真の撮影係をやらされました(笑)。

──猪木さんはファンサービスにも定評があります!

木村さん ロサンゼルスで取材中、通りすがりのアメリカ人から「彼は何者だ?ムービースターか?」と聞かれたこともありました。バーのラウンジでも。猪木さんを知らない外国人でも、どうやら尋常じゃないオーラを感じたんでしょうね。そのときは「モハメド・アリと闘って引き分けた日本の有名なプロレスラーだ」と説明したんですが、アリの名前を出すとあきらかに態度が変わるのがわかりました。



現代版にアップデートした「格闘技世界一決定戦」を構想していたUFOの設立趣意書を作成!


──やはり猪木さんにとってモハメド・アリとの世紀の一戦は大きな財産だったんですね。そういえば木村さんは猪木さんに密着取材する一方、猪木事務所のブレーンとして、UFO(世界格闘技連盟)旗揚げにも携わったと聞いています。 

木村さん はい。UFOの設立趣意書は僕が作成しました。

──えええ!本当ですか!それは驚愕の事実です!    

木村さん といっても、佐山(聡)さんの頭の中で出来上がっていたイメージを引き出して、それを僕が文書やフローチャートにしてまとめていくという流れなので、あくまで補佐的な関わり方です。佐山さんはアマチュアの下部組織を世界中に作り、そこから何段階かレベル別のステージを設け、その中から選ばれたトップクラスの選手たちが実力を競う最高峰の舞台にUFOのリングを位置付けるという構想を思い描いていました。ルールはほぼ総合格闘技寄り。「ファイティングアーツ(格闘芸術)」というコンセプト・ワードは僕の猪木さんへのインタビューの中で自然発生的に生まれたフレーズを使いました。ちなみにそのUFOの設立趣意書は、英訳されてアメリカのメディア王ルパート・マードック氏に送られたと後で事務所のスタッフから聞いてます。はっきりしませんが、たしかマードック氏がテレビ朝日を買収しようとしていた時期だったような憶えがあります。     


(画像は本人提供です)

──ということは、UFOはマードック氏が所有している全米のテレビネットワークでの放送を目論んでいたわけですね。

木村さん おそらくそうだと思います。猪木さんはUFOの設立当初から世界市場を視野に入れていて、オランダのウィリエム・ルスカ、アメリカのウィリー・ウィリアムスといった異種格闘技戦で闘ったライバルたちを各拠点のリーダーにしようとも考えていました。


猪木事務所のブレーンとして


──めちゃめちゃ面白い話です!猪木さんの「格闘技世界一決定戦」を現在版にアップデートして、組織化していくという構想だったのですね。そういった壮大なプランニングにスタッフとして参加されていた時代をいま振り返るとどんな思いが蘇りますか?

木村さん いや、刺激的で楽しかったですよ! 佐山さんも猪木さんもズバ抜けた天才。そんな人たちと一緒に仕事ができる機会なんて普通ありませんから毎日わくわくし通しでした。ただ、周りの人たちは大変そうに見えました。一応誤解のないよう説明しますが、僕はあくまで猪木事務所とは対等な立場の外部スタッフで社員になったことはありません。仕事は成功報酬。主として運営がうまくいってなかった「公式ウェブサイト」やオリジナルグッズ販売の「イノキイズムストア」のリニューアルなどを頼まれてそのプロデュースを手掛けたり、実現には至らなかった「アントニオ猪木記念館/格闘技アリーナ」の企画立案やさまざまな商品開発に携わったりしていました。ところが、ある日、突然、猪木さんが事務所を解散してそれまで進めていたプロジェクトのすべてが水泡に帰してしまったんです。

──猪木事務所はどうして解散になってしまったんですか?

木村さん いろいろ憶測が流れていたようですが、そのあたりの経緯についてはまったくわかりません。事前に何の連絡もありませんでしたし、いまだに何があったのか誰からも聞かされていないんです。プロレス業界に詳しいマニアファンの間では一方的に猪木事務所が悪の巣窟のように語られているみたいですが、僕の見た限り、スタッフはみんな猪木さんのために体を張って頑張ってましたよ。正直、僕はもともと猪木事務所の倍賞(鉄夫)社長が新日本プロレスの役員時代に揉めたことがあって関係はあまりよくなかったんです。それでも、事務所に出入りしても倍賞さんから嫌な顔をされたことはありませんでした。が、肝心の猪木さんと倍賞さんの間には何かあったようで…。どうやら猪木さんにネガティブな情報を吹き込んでいる人たちもいたようでした。そう、さっきは猪木事務所の仕事は楽しかったと言いましたが、僕は猪木さんの周りでそういう不信感が渦巻いている状況には辟易してました。というのも、猪木さん関連の仕事の窓口は猪木事務所だけじゃなく、他にいくつも派閥があってつねに牽制し合ってたんです。僕は中立の立場でいずれの派閥とも仕事をしていたので冷静に全体の状況が見えていたんですが、よくよく考えてみると、猪木さんを独占したいというそれぞれの派閥の思いを利用して綱引きをさせていたのは他でもない猪木さんだったんです…。

──今の話を聞くと猪木さんは現役引退後も周囲に緊張感をふりまいていたんですね。

木村さん 猪木さんはリング上でそうだったように馴れ合いがいちばん嫌いだったんでしょうね。でも、プロレスならレスラー同士の不信感も闘いのドラマへと転じてプラスに作用する可能性もありますが、通常のビジネスの現場にそのやり方を持ち込んでも足の引っ張り合いにしかならないのにと僕は思ってました。


猪木さんとの別離


──猪木事務所が解散した翌2007年、猪木さんは新団体IGFを旗揚げします。木村さんはIGFには関わることはなかったのですか?

木村さん 関わりませんでした。というのも、猪木事務所が解散してIGFが旗揚げするまでの間に、モハメド・アリの娘レイラ・アリと猪木さんの娘・寛子さんに異種格闘技戦をやらせるというプランが持ち上がったんですが憶えてますか。

──ありましたね!2006年8月に、アントニオ猪木vsモハメド・アリ30周年を記念したイベントを日本武道館で開催して、アリの娘VS猪木さんの娘が行われる計画だと当時の東京スポーツで報じられました。結果的に実現はしませんでしたが。

木村さん ちょうどその時期、猪木さんの元・側近の方から会議に参加してくれないかという連絡があったんです。猪木さんからのご指名だと。でも僕は「申し訳ありませんがアリの娘と寛子さんの試合の件なら参加できません。もし猪木さんがそれを本気でやろうとしているのなら、猪木さんが御自身の歴史を否定することになります」とお断りしました。アリの娘は正真正銘プロボクサーなのに対し、寛子さんは格闘技経験ゼロのズブの素人。いくらなんでもそんなマッチメイクはあり得ない。強力な話題性が必要なのはもちろんわかっていましたが、そんなことを猪木さんがやってしまったらこれまでのアントニオ猪木の歴史までもがすべて嘘になってしまうと訴えたんです。それ以来、猪木さんサイドからの連絡はなくなりました。

──ちなみに2007年6月29日・両国国技館で行われたIGF旗揚げ戦はご覧になられましたか?

木村さん テレビで見ました。見事でしたね。あの旗揚げ戦のクオリティーが維持できればIGFは凄い団体になったと思います。しかし、続きませんでした。原因ははっきりしてます。メインイベントのカート・アングルVSブロック・レスナーがあまりにも凄すぎたんです。

──カート・アングルVSブロック・レスナーは、WWE『レッスルマニア』でもメインイベントとなったドル箱カードですからね! でも、なぜそれがIGFの続かなかった原因だと?

木村さん おそらく、あの試合はIGF旗揚げ当時の猪木さんの理想でありメッセージだったと思うんです。「こういうプロレスをおまえらやれよ。俺はこういうプロレスが見たいんだ」という。けれども、僕は残念ながら日本人選手には絶対真似できないプロレスだと感じていました。かといってアングルやレスナー級の選手を毎回呼ぶことはできないし、そもそもあの2人の他にああいう試合がやれる選手がアメリカにいるかどうかもわからなかったわけで…。つまり、その先、尻すぼみになるのは最初から見えていたんです。

(第3回 終了)