ジャスト日本です。
有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。
今回のゲストは、今年、大ヒット野球ノンフィクション『砂まみれの名将』の著者でスポーツ報知デジタル編集デスクの加藤弘士さんです。
加藤弘士(かとう・ひろし)1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。茨城中、水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。6年間の広告営業を経て、2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスクを経て、現在はスポーツ報知デジタル編集デスク。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。
『砂まみれの名将』(新潮社) 阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。現在6刷とヒット中。
収録時間はなんと3時間!
加藤さんの情熱溢れるプロレス話をサニーデイ・サービスの名曲と共に堪能してください!
私とプロレス 加藤弘士さんの場合「第2回 あじさい」
全日本プロレスの凄さと魅力とは?
ーー加藤さんが幼少期からご覧になっている全日本プロレスの凄さと魅力について語っていただいてもよろしいですか?
加藤さん 昭和の全日本は煌びやかさが魅力でした。ハーリー・レイス、リック・フレアーもそうですが、僕はニック・ボックウィンクルが好きですね。
ーーニックさんが好きなんですか!
加藤さん ニックは必殺技とかないじゃないですか。足4の字固めはあるけど。それでもベルトを長い間、持っていて風格もあったんですよ。あとはスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディが好きでした。
ーーミラクル・パワーコンビですね。
加藤さん 二人とも入場テーマ曲がカッコいいですよね。ハンセン&ブロディVS鶴田&天龍、ハンセン&ブロディVSザ・ファンクスは夢中になって見てました。あとハンセン&ブロディVSニック&レイスという試合もあったんですよ。
ジャンボ鶴田のジャンピング・ニーパットは必ず顎の先端にヒットする倉持アナ実況!
ーーそれは1984年11月23日・後楽園ホールで行われた『世界最強タッグ決定リーグ戦』の公式戦で実現している夢のカードですね。結果は10分14秒、両者リングアウトで決着しました。
加藤さん そうなんですよ!僕が小学生になった頃から、プロレスの実況=古舘伊知郎アナウンサーという風潮があった中で、倉持隆夫アナウンサーの実況がいい味を出していて好きだったんですよ。倉持さんの実況では、ジャンボ鶴田さんのジャンピング・ニーパットが必ず顎の先端にヒットするんですよ(笑)。
ーーその通りですよ。ヒットというワードも、「ヒット!」や「ヒィーット!」と語尾を使い分けますよね(笑)。
加藤さん 本当に顎の先端に当たっているのだろうか疑問ですね(笑)。あと「鶴田、グロッキー!」とか倉持さんの独特の言い回しが最高でした。古舘さんはプロレス愛はあるけど、その一方で野心も垣間見られて、「俺の凄い語りを全国のお茶の間に届けるんだ」という実況のスキルが爆発しているんですよ。だから僕たちも「古舘節」に夢中になったわけなんですけど。それに対して倉持さんはちょっとおとぼけな感じがまたいいんですよ(笑)。
全日本のテーマ曲はどれも名曲
ーーハハハ(笑)。
加藤さん それからコブラさんの守備範囲だと思いますけど、やっぱり全日本のテーマ曲はどれもクオリティーが高いんですよ。
ーー外れはないですね。
加藤さん そうです。僕が野球記者になってから、全日本のテーマ曲を決めていたキーマンの一人である梅垣進さん(元『全日本プロレス中継』ディレクター)と交流する機会があったんです。梅垣さんは晩節、プロ野球中継を担当されていて、僕の記事やコラムをよく読んでくださって、「加藤くんのコラム、面白かったよ」「加藤くん、よかったよ」と褒めていただきました。これは嬉しかったですよ。ラジオ日本の「真夜中のハーリー&レイス」のゲストに推薦してくれたのも梅垣さんでした。おかげさまで清野茂樹さんと出会えたんです(笑)。梅垣さんは若い頃にディスコによく行っていて、そのエッセンスをテーマ曲選びに応用していたという話はご本人から聞きましたね。梅垣さんたちが採用した『スピニング・トーホールド』、『J』、『サンダーストーム』、『スカイ・ハイ』、『サンライズ』、『移民の歌』『王者の魂』…全日本のテーマ曲はどれも名曲ですよ。
1990年代の全日本は狂熱空間!
ーー同感です。
加藤さん 月日が流れて平成の全日本は、『週刊プロレス』のターザン山本さんと市瀬さんがマッチメイクに参画したり、SWSの出現で選手離脱が相次いで、それに伴い闘いの純度が想像できないレベルにまで上がっていったような気がします。天龍さんが抜けた後に鶴田さんが完全無欠のエースに君臨して、超世代軍の高き壁として立ちはだかって、鶴田さんが病気でセミリタイアになると、三沢光晴さん、川田利明さん、田上明さん、小橋建太さんの四天王プロレス時代に突入していきますよね。あの頃の全日本の激闘は今、見ても心から震えますよ。
ーー1990年からの鶴田軍VS超世代軍あたりから、試合のレベルが一線を越えてきたように思いますね。
加藤さん その前の天龍革命や鶴龍対決あたりから、「こっちも心して見ないといけない」という心構えを持つようになりましたね。あとファンのニーズを的確に捉えていて、全日本を愛する人々が会場に集結して、興行を選手とファンが一緒に創り上げていたような気がします。今の全日本も悪くはないし頑張っているとは思うんですが、あの頃の全日本を見ている人間からすると…。
ーー1990年代の全日本は狂熱空間なんですよ。
加藤さん その通り!狂った熱なんですよ!!
ーー1990年代の全日本が放つ狂熱を味わうと、普通の熱さではどうしても物足りなくなるんですよ。
加藤さん ある種の中毒症状が出ちゃうんですよ。記憶が現状肯定の邪魔をするんです。「昔はよかった。今はちょっと…」と苦言を呈するような老害にはなりたくないですけどね…。でも、今のビッグマッチみたいにひたすら頭から落とせばそれでいいのかというと、そうじゃないですよね。僕は幼少期、パット・オコーナーの腕の取り合いとかドキドキしながら見てましたから。
ーー「魔術師」パット・オコーナーは素晴らしいプロレスラーでしたね。
加藤さん そうですよね。ビル・ロビンソンのグラウンドもそうだし、マイティ井上さんの試合とか見ていて職人の「技」に唸るんですよ。今のレスラーには危険なことをやってほしいとは思いませんし、事故が起こって再起不能とかリング禍とか見たくない。だから、今のプロレスに若干、順応しきれていない自分がいるんです。
ーー実は四天王プロレスは頭から落としたり、過激で危険な攻防を繰り広げてましたが、試合前半は割とじっくりとしたグラウンドの攻防が多いですよ。
加藤さん そうでしたね!四天王には、三沢さんと川田さんはレスリングで国体優勝、田上さんは元大相撲十両、小橋さんが柔道と格闘技のバックボーンがあるんですよ。
ルー・テーズと三沢光晴の時空を超えた意地の張り合い!
ーー1999年6月11日に全日本・日本武道館大会で行われた三沢光晴VS小橋健太の三冠ヘビー級選手権試合がありまして、これがなかなか興味深い試合になったんですよ。
加藤さん ありましたね!
ーー前年の1998年10月31日に同じく日本武道館大会で二人の三冠戦がありまして、これが『プロレス大賞』ベストバウトを獲得した名勝負となったんですけど、後日この試合をあの”鉄人”ルー・テーズが映像を見て、途中から居眠りをしたらしんですよ(笑)。
加藤さん えええ!!
ーー試合が終わるとテーズは「この試合には見るべきものが何もないからなあ」「批評しようにもレスリングの動きがほとんどないんだから」「言えるのは、技も動きも雑だ」と酷評するんですよ!
加藤さん 素晴らしいですね!
ーーあと、試合中に小橋さんがスリーパーホールドで絞めている際に、三沢さんが右手でタイツを掴むんですが、これにテーズが「関節技を決められているのに、なぜ、三沢はタイツを上げているのか。小橋の技に力が入っていないからだろう。試合中に休むにはいい。しかし、タイツを上げているのはどう考えてもナンセンスだ。力道山が生きていたら、リングに飛び込んできて二人をぶん殴ったんじゃないか」とまで批判するんです。
加藤さん なるほど!的確な指摘ですね!
ーーでも、これには続きがあるんです。なんと三沢さんがテーズの指摘に「倒れているときにタイツに手をかけるのは俺のくせですね。無意識にやっているんだと思います」「小橋が首を取ってきたので、決まらないように上体を反らす。ポイントを外した上で、『タイツを上げる余裕がまだ、俺にはあるんだぞ』と小橋にアピールする。こういう細かいところにも駆け引きがある」と反論しているんです。
加藤さん 面白いです!さすが三沢さんですよ。
ーーこの流れを踏まえた上で1999年の三沢VS小橋の三冠戦は全体の三分の一がグラウンドやレスリングの攻防だったんです。三沢さんがタックルでテイクダウンを取るとか、グレコローマンスタイルの状態の取り合いから俵返しで投げたりとか。小橋さんが飛びつき腕十字、腕折り固めとか。そして後半は四天王プロレスの攻防をやって大激闘を繰り広げました。この時の三沢VS小橋は格闘技やオールドタイマーに対する無言の反論をしているんです。
加藤さん いいですね!!プロレスは奥深いですね。
ーーテーズの意見も一理あるんですけど、三沢さんのアンサーも素晴らしかったと思います。
加藤さん 時空を越えたルー・テーズVS三沢光晴の意地の張り合いですよね。
ーーテーズの代名詞といえばバックドロップですが、ちゃんとした形のテーズのバックドロップを最後に食らったのが三沢さんだったという説があるんですよ。
加藤さん えええ!!
ーーテーズはジャンボ鶴田さんにバックドロップを伝授しているじゃないですか。その伝授の際にテーズは練習で当時新人レスラーだった三沢さんを相手にブリッジをきかせたバックドロップで投げているんです。それこそ「へそで投げる」わけです。74歳になったテーズは1990年12月26日新日本・浜松アリーナ大会で蝶野正洋さんとの試合がラストマッチで、バックドロップを放っているのですが、腰を手術して、臀部にプラスチックが入っていたため、あまりブリッジが効いてなかったんです。だから日本でテーズが放ったブリッジの効いたバックドロップを最後に食らったのは三沢さんだったという説なんですよ。
加藤さん 三沢さんは1983年に開催された『ルー・テーズ杯』で準優勝しましたからね。
ーー『ルー・テーズ杯』は越中詩郎さんが優勝、三沢さんが準優勝、アポロ菅原さんが惜しかったんですよね(笑)。
加藤さん ハハハ(笑)。
アントニオ猪木さんの凄さと魅力
ーーありがとうございます。ここから加藤さんの好きなプロレスラーたちについて語っていただきます。まずはアントニオ猪木さんの凄さと魅力です。
加藤さん やっぱり色気ですね。今、見ても猪木さんの試合は面白いじゃないですか。猪木VS国際軍団の1VS3のハンディキャップマッチは、JALの飛行機の中で見れるんですよ。
ーーそうなんですか!
加藤さん 出張の帰りに飛行機の機内で見ると、めちゃくちゃ面白くて、長旅の疲れなんか吹っ飛んじゃうんですよ!
ーー最高ですね!
加藤さん 猪木さんはプロレスラーとしての表現力と実力が抜きん出てますよね。あと猪木さんはトレーニングマシンとかで鍛えたものとはちょっと違って、ナチュラルに強靭な肉体なんですよ。少年時代にブラジルのコーヒー農園で朝から晩まで働いた過酷な労働環境がもたらした産物なのかもしれませんが、強さやしなやかさを感じるんです。表現者としての色気とそれを可能にする肉体と技術が僕が考える猪木さんの凄さですね。
猪木さんのジャーマン・スープレックスホールドはやっぱりカッコいい!
ーーしかも猪木さんはルーズ・ジョイントだから関節技がなかなか極められないという話もありますからね。
加藤さん そうなんですよ!あと猪木さんのジャーマン・スープレックスホールド。あれこそ、本当にプロレスの芸術品ですよ!全日本のヘビー級レスラーは、ジャーマン・スープレックスホールドをあまりやらないじゃないですか。
ーーその通りです。これは市瀬さんも同様の指摘をされていましたね。1980年代の全日本では、ジャンボ鶴田さんはジャーマンを封印してましたし、天龍源一郎さんや谷津嘉章さんがせいぜいやっていた印象があります。あと二代目タイガーマスク(三沢光晴)とか。
加藤さん 天龍さんのジャーマンはちょっと不格好じゃないですか。
ーー確かにそうなんですよ。でも天龍さんのジャーマンに関しては、気持ちで投げているんです。形じゃなくて(笑)。
加藤さん ハハハ(笑)。分かります!!
ーー天龍さんのジャーマンは、あの武骨さが私は好きなんです。大体、彼のジャーマンは試合の局面を打開するために使うんですよ!
加藤さん ハハハ(笑)。そういう一周した後の味わい方もありますけど、猪木さんのジャーマンってやっぱりカッコいいんですよ!研ぎ澄まされた肉体とつま先立ちのブリッジには若き日にカール・ゴッチから学んだものを感じますよ。あとは私生活がデタラメ(笑)。
猪木さんの元からみんな離れても、最後はみんな戻ってくる
ーーハハハ(笑)。
加藤さん 1993年の猪木スキャンダルでは、新間さんが抵抗勢力になって「こんなに猪木はデタラメな野郎だ」とワイドショーとかで批判していたんですよ。僕は大学入学で上京した直後で、五月病も相まって日々、ワイドショーを見て傷ついていたんです。当時出た「猪木とは何か」というムック本が興味深くて、何度も繰り返し読んでいたなあ。猪木さんは決して聖人君子じゃないし、破天荒で無茶苦茶なところも魅力であり、それもまたスーパースターだなと思うんですよ。
ーーそう言いつつ、猪木さんと新間さんは9年後の2002年に和解してますから。
加藤さん 最高ですよ。袂を分かった二人が時を経て、また新しいことを始めるケースがありますよね。プロレスっていいですよね。猪木さんには数多くの弟子がいて、みんな、離れていくんですけど、最終的にはみんな、猪木さんの元に戻ってくるんですよ。猪木さんのことが嫌いになれないからだと思うんです。
ーー藤原喜明さんがかつて、「猪木さんは大嫌いなんだよ!大嫌いなんだけど…大好きなんだよ!!」と語ったことがあるんですよ。
加藤さん それは分かるなぁ…。猪木さんはある意味、悪女ですよ(笑)。
ーー長州力さんなんて2002年に新日本を退団した際には「猪木さんに感謝することはない!」と言ったんですよ!なのにやっぱり和解しているんですよ。そういえば、猪木さんは1984年に長州さんや多くの選手が新日本を離脱した時に「いい大掃除ができました」と言いましたよね。
加藤さん あれは凄くいい言葉ですよ。長州さんはこれに対して「俺たちはゴミなのか」と言ったとか。恨みつらみではなく「いい大掃除ができました」と表現する猪木さんの言語センスは最高ですよ!髙田延彦さんがPRIDEでヒクソン・グレイシーに惨敗した際に「よりによって一番弱いヤツが出ていった」と言い放ったのも、凄いですね。
ーー実はあの発言でプロレスを守っているんです。色々な含みもあって、パラドックス的に考えると、あれは素晴らしい名言なんです。
加藤さん そうなんですよ。
燃える闘魂への加藤さんからの鎮魂メッセージ
ーー晩年、猪木さんは腰の病気や持病の心臓の病気「心アミロイドーシス」という難敵と闘病生活を送っていましたが、2022年10月1日に心不全でこの世を去りました。波乱万丈の79年の生涯を壮絶に生き抜いた猪木さんに加藤さんからメッセージをお願いいたします。
加藤さん 自分はプロレスの取材をしたくてスポーツ新聞の会社に入ったんですが、結局記者としては野球一筋で猪木さんを取材する夢は叶わなかった。でも今は、それで良かったかなとも思っているんです。僕にとっての猪木さんは、チケットを買って客席から見つめたあの凄さが全て。入場テーマが鳴って、でっかい声で猪木コールを叫んで、ワクワクドキドキしたあの雄姿が全てです。平壌で見たリック・フレアー戦、メーデースタジアムの19万人を虜にしたあのどよめきはずっと語り継いでいきたいと思います。そして闘魂…バーニングスピリットを心の中にずっと携えていくことが、猪木さんへの恩返しなのかなと思います。同時代を生きられて、本当に幸せでしたね。
AWA世界王者時代のジャンボ鶴田さんはもっと評価されていい!
ーーありがとうございます。加藤さんの想いはきっと天国の猪木さんにも届いていると私は信じています。次にジャンボ鶴田さんの凄さと魅力について語っていただいてもよろしいですか。
加藤さん 鶴田さんは1984年2月23日全日本・蔵前国技館大会でニック・ボックウィンクルを破って日本人初のAWA世界ヘビー級王座を獲得しますよね。これまでのアメリカメジャー王座を獲得すると、王座を取ったとしてもリターンマッチで敗れてベルトは最終的にアメリカに戻るのが通例だったんですけど、鶴田さんの場合は、王者としてアメリカをサーキットでまわるんですよ。イチローさんや大谷翔平選手がアメリカのMLBで活躍していますけど、鶴田さんは彼らに先駆けて、ある意味メジャーリーガーだったんですよ。
ーーまさに実力は「メジャー級」ですね!
加藤さん 『週刊プロレス』で鶴田さんのAWA防衛戦ロードをレポートしていて、そのタイトルが「世界王者はつらいよ」だったんです(笑)。
ーーハハハ(笑)。
加藤さん 正統派でプロレスの上手な鶴田さんに、毎日のように防衛戦が組まれて、反則負けを自らやってベルトを守るんですよ。NWA王座やAWA王座はピンフォールかギブアップ勝ちじゃないとタイトルは移動しないというルールがあって、その壁に何度も阻まれてきてタイトルを取れなかったのが鶴田さんだったんです。その鶴田さんがAWA王者になった瞬間に、ダーティーチャンプとしてアメリカで防衛していくというのを誌面で読んで「世界王者は大変なんだな」と感じましたよ。アメリカでは鶴田さんはバックドロップや空中胴絞め落としで防衛できないんだなと。鶴田さんのAWA王者時代はもっと評価されていいと思いますよ。
混乱期のAWA
ーーAWAが鶴田さんの売り出しに悩んでいたんじゃないですか。全日本でやっている鶴田さんのまま、アメリカで防衛戦をやっているので、ヒールがなかなかできなんですよ。中途半端な立ち位置でアメリカで防衛戦を続けて、正統派のリック・マーテルに敗れて、王座陥落したという印象があるんですよ。
加藤さん ああ~。なるほど。方向性が定まらない中で全日本のエース・鶴田さんがアメリカの行く先々で反則で防衛を重ねるのは、当時小学4年生の僕には衝撃的で受け止めるにはかなり重かったですよ。
ーー防衛戦の相手がジム・ブランゼル、グレッグ・ガニアですからね(笑)。日本にいたら鶴田さんよりも格下なんですよ。
加藤さん ハハハ(笑)。ブラックジャック・ランザ、バロン・フォン・ラシクとか(笑)。
ーー実はこの頃のAWAは迷走していて、AWAのスターだったハルク・ホーガンが1984年にWWFに移籍してから観客動員数が減少してたんです。その時期に世界王者になったひとりが鶴田さんだったんです。
加藤さん AWAも混乱期だったんですね。
ーーその通りです。世界王座は鶴田さんからマーテルに移動して、そこからスタン・ハンセンが王者になって、防衛戦で試合放棄して出場しなかったので王座を剥奪されて、ニックがまたも王者に指名され、若き実力者カート・へニングが次の王者になるも、”南部の帝王”ジェリー・ローラーに敗れると、WWFに移籍。ローラーとAWAの契約が切れて王座をはく奪され、そこから長い間、王者に君臨したのはAWAのプロモーターであるバーン・ガニアの娘婿であるラリー・ズビスコだったんです。
加藤さん ビンス・マクマホンの侵略によって、アメリカマット界のパワーバランスが変わっていくんですね。
ーーマサ斎藤さんが1990年2月10日新日本・東京ドーム大会でAWA世界王座を獲得した時の相手はラリー・ズビスコで、そこには最終的に身内に頼ったバーン・ガニアの足搔きが見え隠れするんですよ。あの頃のAWAは末期ですから(笑)。
加藤さん ハハハ(笑)。でもこれだけは言わせて下さい。ニックから鶴田さんが奪取して巻いたAWA世界ヘビー級のベルト、でっかくて本当にかっこよかった。「ベルトがかっこいい」って、めちゃくちゃ重要ですよ。あの頃のアメリカ、憧れだったなあ。
(第2回終了)