カリスマになれなかった英雄型アンドロイド/アルティメット・ウォリアー【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第99回 カリスマになれなかった英雄(ヒーロー)型アンドロイド/アルティメット・ウォリアー 
シリーズ カリスマ①



さまざまなジャンルにはその世界を牽引するカリスマと呼ばれる者達がいる。

そもそもカリスマとは何なのか?

カリスマ(ギリシア語: Χάρισμα、ドイツ語: Charisma)とは、預言者・呪術師・英雄などに見られる超自然的・または常人を超える資質のことを指す。この資質を持つ者による支配を、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは「カリスマ的支配」と呼び、支配の三類型の一つとした。一般的には、特定の人物に宿る特別な能力や資質をあらわす概念である。とりわけ、人々を引きつけたり信服させるある種の人格上の特質や魅力を指す。より一般論的説明としては、特定の個人、身分、社会組織、象徴、事物などに、他とは異なる超自然的、超人間的、非日常的な力や性質がそなわっていると認識される場合に、それらのもつ特質をカリスマという。
(wikipediaより)

プロレス界にも革新的、多くの人々を惹きつけるカリスマが誕生してきた。
アメリカン・プロレスには1980年~1990年代前半には二人のカリスマがいた。
一人はハルク・ホーガン、もう一人はリック・フレアー。
この二人は相撲で例えると、東西両横綱だと言えるかもしれない。

今回、取り上げるアルティメット・ウォリアーはホーガンの後継者としてWWE(当時WWF)が育成させた人呼んで、"超合金戦士"。
しかし、結果的に彼がホーガンのようなカリスマにはなれなかった。
カリスマになれなかった男が歩んだレスラー人生とは…。

アルティメット・ウォリアーは1959年6月16日 アメリカ・インディアナ州クローフォーズビルに生まれた。
本名はジム・ヘルウィッグ。
彼はプロレス入りする前は元ミスター・ジョージアに輝いたボディービルダー。
将来はカイロプラクターになることを夢見て学校にも通っていた。
カリフォルニア州のゴールドジムでトレーニングをしていたジムはプロレス関係者からスカウトされた。

金髪のオール・アメリカン、アフリカン・アメリカン、ネイティブ・アメリカン、ヒスパニック・アメリカンの四人組で構成されたカルテット"パワーチームUSA"のメンバーにならないかという話だった。
しかし、この計画は流れ、スティーブ・ボーデンと一緒に「レッド・バスチェン道場」に入門した。
スティーブ・ボーデン、彼こそ後にアメリカン・プロレスの象徴となるスティングである。

レッド・バスチェン道場でのトレーニングは8週間コース。
月曜から金曜まで一日3時間、土日は6時間。
ボディスラム、フライングメイヤーなどマットに投げつけられる練習がほとんどだった。

1985年11月、ジムはスティーブと共に当時、プロレス界を暴れまわっていたタッグチームであるロード・ウォリアーズのオマージュキャラクターとしてプロレスデビューする。
フリーダム・ファイターズ、ブレード・ライナーズを名乗り、二人で全米各地を転戦した。
ジムはジャスティス、或いはロック、スティーブはフラッシュ、ロックを名乗った。
当時の彼らの試合はとにかく荒っぽく、デグの棒。
力任せにプロレスをやることしかリングで自己表現できなかった。

1986年6月、ジムとスティーブはコンビを解散する。
解散理由について後にスティーブことスティングはこう語る。

「コンビを組んで1年にもなると、プロレスのビジネスそのものに関することで段々とジムと意見が衝突するようになった。彼はリングに上がってマッスルポーズをとるだけで金がとれると思い込んでいた。俺はちょっと違うのではないのかと感じた。気が付いたらリングの中で必死になって受け身をとっているのは俺だけだった」

スティーブにとってプロレスはやればやるほどレスリングをきちんとできないといけないということを気付いたのだが、ジムはあくまでもマッスルポーズや力任せのパフォーマンスをしていればそれでいいという考え方だったのかもしれない。

ジムはフリッツ・フォン・エリック率いるテキサス州ダラスのWCWAに入り、ディンゴ・ウォリアーとなる。
悪のマネージャーのゲーリー・ハートのボディーガードになるも、途中でベビーフェースに転向する。
WCWA世界タッグ王座、WCWAテキサスヘビー級王座を獲得。

1987年6月、彼は世界最高峰のプロレス団体WWE(当時WWF)に入団する。
ディンゴ・ウォリアーはアルティメット・ウォリアーとなる。
ジムは当時、28歳。
WWE入団以後、アルティメット・ウォリアーはスター街道をひた走る。

前座試合で経験を積み、連戦連勝。
1988年8月にはホンキー・トンク・マンを破り、インターコンチネンタル王座を奪取。
ポスト・ホーガンの有力候補となった。
試合巧者と言われるリック・ルードとの抗争では、なんとプロレスではなくポージング対決まで発展した。

192cm 125kgの異常に鍛え抜かれた肉体、金色の長髪、カラフルなコスチュームとペイント、圧倒的な試合展開が彼の特徴だった。
入場時は全速力でリングに上がり、ロープをブルブル震わせるパフォーマンスを展開、ディンゴ・ボンバーと呼ばれるラリアット、リフトアップ・スラム、フライング・ショルダータックル、アルティメット・スプラッシュと呼ばれるロープに飛んでのフライング・ボディプレスで相手を仕留める極めてワンパターンなファイトスタイル。
プロレス通からすると、塩分濃度が濃いという指摘を受けるスタイルかもしれない。
しかし、単純明快な試合と見た目のカッコよさに子供ファンに愛されたベビーフェースだった。

当時のWWEにはヒーローは筋肉で鍛え抜かれた大男じゃないといけないという観念があったという。
ブルーノ・サンマルチノ、スーパースター・ビリー・グラハム、ハルク・ホーガンなどがその筆頭格である。

WWEがその路線を踏襲した次世代のヒーロー型アンドロイド(人造人間)として生み出されたのがアルティメット・ウォリアーだった。
彼の振る舞い、スタイルから人間らしさなど皆無に等しく、まるでサイボーグやターミネーターがそのままリングで試合をしているかのようだった。

そんなウォリアーがホーガン越えのチャンスを掴んだ。
1990年4月1日のレッスルマニア6にて当時WWE世界ヘビー級王者のハルク・ホーガンとの世代闘争で激突。
ウォリアーは当時インターコンチネンタル王者だった。
この試合でウォリアーは初めて人間らしさを垣間見えた。
勝利に対する執念を見せ、ベアハッグでホーガンのスタミナを奪い、最後は互いの得意技の読み合いを制したウォリアーがアルティメット・スプラッシュで勝利。ホーガン越えと共にWWE世界ヘビー級王座とインターコンチネンタル王座の二冠王となった。

「ホーガンの後継者はウォリアーに決まるかもしれない」

当時はそう思われていた。
しかし、そうは問屋は下ろさなかった。
1990年4月13日の日米レスリングサミットで待望の初来日を果たし、"ミリオンダラーマン"テッド・デビアスを相手に王座防衛戦を行うも、キャリアの少なさとプロレス頭の未熟さを露呈し、ショッパイ試合をしてしまう。

WWEはウォリアーを新しいカリスマとして売り出すも、やはりホーガンの偉大さには叶わなかった。
いくらウォリアーが世界王者でも、WWEのエースでありカリスマはやはりホーガンだった。
カリスマとは世代や性別、人種を越えて愛され、神格化される存在なのだ。
また団体のごり押しだけではなれないものがカリスマでもある。
いくらスーパースターを生み出すことが出来ても、カリスマはそう簡単には生まれない。

1991年1月にイラクの魂を売った鬼軍曹サージャント・スローターに敗れ、王座転落。
失意のウォリアー。
しかし、そんな彼がアメリカン・プロレス史上に残る名勝負を展開する。

1991年3月24日のレッスルマニア7。
ウォリアーは"マッチョキング"ランディ・サベージと敗者引退マッチで対戦する。
サベージは少ない技でどんな対戦相手でも好勝負のプロレスを残すWWEきってのプロレスマスター。

サベージの天才的試合コントロールにより、次第にあのホーガン戦以上にウォリアーは人間の顔になっていく。
顔のペイントもはがれた。
弱々しい表情も見せた。
得意技でカウント3を奪えず、神に「何故だ!」と訴える姿。
それはWWE入団後、いや正確に言うとプロレス入り後、初めて見せたジム・ヘルウィッグの素顔だった。
最後はフライング・ショルダータックル連発で勝利した。
試合後はサベージと元女性マネージャーのエリザベスの再会が話題となり、サベージ劇場が爆発したが、それでも試合の評価は落ちなかった。
ようやくウォリアーはプロレスラーとしての作品を残したのである。

しかし、その後ウォリアーは金銭面や薬物問題などで何度もWWEを退団した。
実際に彼が世界王者時代、ホーガン欠場中にメインで試合をしていた時代のWWEの人気は停滞していたという。


何故ウォリアーはカリスマになれなかったのか?
何故ウォリアーがトップになると人気は停滞したのか?

プロレスライターの斎藤文彦氏はこのように評している。

「アルティメット・ウォリアーは自分がレスラーになるまでプロレスというものをほとんど観たことがなかったという。彼のファイトからメッセージのかけらも伝わってこないのはそのためだ。それでいて、あるレベル以上のギャラをもらわないとやっていけないタイプらしい。何も考えずにただ騒いでいるようにみえて、実はアメリカの観客は感動の共有を求めている。だから、ハートのよくないレスラー、本気でプロレスと取り組んでいないレスラーをほとんど反射的に見抜いてしまう」

アメリカのファンは見抜いていた。
アルティメット・ウォリアーのプロレスから何のメッセージを感じ取ることができないことを。

WWEでの最後の大一番となったのが1996年のレッスルマニア12。
電撃復帰を果たしたウォリアーはシングルマッチで対戦相手を秒殺。
その強さを見せつめた。
ちなみに対戦相手は当時キャリア4年の新鋭であるハンター・ハースト・ヘルムスリー。
この男こそ、現在WWE執行役員を務めるトリプルHである。
カリスマになれなかった男とキングとなった男の人生は一瞬だけ重なっていたのだ。

1998年、ウォリアーはWCWに移籍する。
ザ・ウォリアーに改名し、ホーガンとの抗争、スティングとの再会タッグ結成などの話題を提供するも、結局彼はWWEが作り上げたヒーロー型アンドロイド。
WCWにマッチするはずもなかった。

1999年、WCWを離脱したウォリアー。
その後、政治団体での講演活動、イタリアでのプロレス復帰などWWEとはかかわらない生活を送っていた。
プロレスは2008年を最後にセミリタイア状態。
彼はどこにいくのか…。
次第に忘れさられた存在となっていったその時。

2014年、WWEはウォリアーの殿堂入りを発表したのである。
WWEとの関係は長年冷え切っていた。
しかし、それでもWWEが生んだ伝説のスーパースターであることには変わりない。
カリスマになれなくても、彼は輝きを放っていたのだ。

WWEはアルティメット・ウォリアーをこう称える。

今までWWE王座を獲得してきたスーパースターの中で、破壊的かつ爆発的なまでの活気と生気に満ち溢れた人物といえば、アルティメット・ウォリアーおいてほかならないだろう。人知の及ばない世界から地球に現れたとされたこの男は、顔にペイントを施し、まるで象形文字を言葉にしたかのような、神秘的な話術でWWEファンを魅了した。そして、当時の衝撃的な活躍ぶりは現在でもファンの間で話題に上がることが少なくない。アルティメット・ウォリアーがスポーツ・エンターテインメントの歴史を語るうえで外せない、重要な人物であることには変わりない。
http://wwe.co.jp/superstar/251.html

2014年4月7日、WWE殿堂入りを果たしたウォリアーはこの日、RAWの収録会場にいた。
観衆の前で感謝のスピーチをするためである。
長髪は白髪のクルーカットになっていた。
それでもペイントを施した彼はマイクでファンに語りかけた。

「WWEのスーパースターは誰一人として己が力だけで伝説となったわけではないのだ。人は誰しも、心臓が最後の鼓動を打ち鳴らし、肺が呼吸という役目を終える日を迎える。そして、もし彼の成し遂げたことが他の人間を躍動し、興奮させ、血潮を熱くさせたのならば、彼の偉大な真髄と魂は不滅のものとなる。それは彼を讃え、彼が永遠に生き続けたということを証明する語り手、ファン、そして記憶により可能になるのだ。君達一人ひとりがアルティメット・ウォリアーという伝説を生み出したのだ。そして今もバックステージにはそんな伝説になるであろう選手がたくさんいる。ウォリアーの魂を持った者もいるだろう。君達はまた彼らに同じことをするのだ。彼らが情熱を持ち努力をして生きたかを見極めるのは君達なのだ。君達が彼らの物語の語り手となり、彼らを伝説とするのだ。私はアルティメット・ウォリアーである。そして君達はアルティメット・ウォリアーのファンだ。アルティメット・ウォリアーの魂は永遠に走り続けるのだ」

プロレス会場という公の場で、心からファンに感謝を述べたウォリアー。
ファンはそんな彼に喝采を上げた。
もしかしたらこれを果たしたことに彼は本当に満足してしまったのだろうか…。

RAW収録翌日の2014年4月8日、ルイジアナ州のホテルに倒れているところを発見され、彼はこの世を去った。
検死の結果、動脈硬化症に伴う心臓発作で、妻とともにホテルの周りを散歩中に、心臓発作に襲われたという。
享年54歳だった。
前日にファンの前で語ったあのマイクは彼の遺言となってしまった。

カリスマになれなかった男の人生は突然、終わりを告げた。

「自ら横綱の座から退いた男」

彼をこう評する者もいる。
私は思うのだ。
どんなに困難や罵声を浴びせられても、ワンパターンな試合でも継続してプロレスをし続けていれば、彼はもしかしたらカリスマになったのではないかと。

現在、WWEのエースであるジョン・シナはベビーフェースにも関わらず、試合内容の単調さに一部からブーイングを浴び続けた。しかし、それでもシナはリングに上がり続け、経験値を挙げて今日の不動の地位を獲得した。

シナの勤勉さがウォリアーにあれば…。

プロレスにも人生にも「たら」、「れば」はない。

これも彼がたどり着いた運命だったのかもしれない。

しかし、それでも彼は多くのファンの心にその勇姿を残してみせた。
またジャングル・ジム・スティール、レネゲード、スコット・プトスキーなどアルティメット・ウォリアーの影響を受けたオマージュレスラーを輩出したことも彼の功績の一つでもある。

あのマイクで語った言葉を借りるなら、アルティメット・ウォリアーの魂は永遠に走り続ける。
あらゆる教訓を残しながら…。