名勝負選 三沢光晴VS小橋健太【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
名勝負選
1999.6.11 日本武道館/三冠ヘビー級選手権試合(全日本プロレス)
(王者)三沢光晴 VS 小橋健太(挑戦者)





覚悟を共有した両雄が闘っていた「伝統」と「偏見」という強敵
~究極のプロレス 三沢光晴VS小橋健太 最後の三冠戦~



三沢光晴と小橋健太(建太)。

二人はプロレスに対して命を懸けて闘い、ジャンルを死守するという「覚悟」を分かち合った戦友である。

かつて二人はシングルのタイトルマッチで5回対戦している。


1995年10月の三冠戦。

当時、超世代軍のパートナー同志だった二人。

小橋に勝利した王者・三沢が試合後、マイクで「小橋、ありがとう!」と叫び、頭を下げた。


1997年1月大阪での三冠戦。

王者・小橋はこの試合に全てを懸けていた。母親に「もしこの試合で何が起きても、三沢を恨まないでほしい」と言い残してリングに立つ。

全日本プロレス、いや日本プロレス界の歴史を変えるような究極のプロレス「極闘」の末、三沢が勝利した。試合後、あまりにも死闘だったため両者とも起き上がるまで時間がかかるほどだった…

そして、小橋は試合後病院に直行した…


1997年10月の三冠戦。

両者はリング上ですべてをぶつけ合った。

あのジャイアント馬場が試合中に涙を流すほどの激闘の末、またしても王者・三沢が勝利する。


1998年10月の三冠戦。

新時代を創ろうとする王者・小橋に、プロレス界のエース三沢が立ちはだかった。

場外への断崖式タイガードライバーという信じられない技が飛び出す超絶展開の末、エース三沢が勝利。


最後のタイトルマッチとなった2003年3月のGHC戦。

格闘技の波にのまれていた当時のプロレス界において、一矢を報いた試合だった。

数々の怪我を乗り越えた挑戦者・小橋が王者・三沢を破り、念願の三沢越えを果たした。


そして、今回ご紹介させていただく1999年6月の三冠戦。

この試合は三沢VS小橋の歴史において最後の三冠戦だった。


1999年1月に全日本プロレス社長・ジャイアント馬場が逝去し、ゴタゴタの末、新社長に就任した三沢。5月の馬場追悼大会でベイダーを破り、5度目の三冠王座を獲得し、初防衛戦の相手に小橋を指名した。





「この試合だったら自分が一プロレスファンとして会場に足を運びたいと思う」


三沢がこのように語るように小橋との名勝負には絶対の自信があった。

三沢VS小橋のタイトルマッチは過去プロレス大賞のベストバウトに3度獲得している黄金カードである。

三沢VS小橋はプロレスが紆余曲折の末、たどりついたプロレスが最大限に表現できる限界地点だった。


「最近プロレスを見始めた人は、成長過程を知らないでしょ。俺は『えーっ!』って思いながら反則やリングアウトを見てたほうだから。プロレスがここまで来るのにどれだけ大変だったか、それを知ってほしい。」


昔の悪い伝統とも言える、場外リングアウト裁定、形勢が不利になると凶器を持ち出して反則裁定に持ち込むような不完全決着や何かと流血に頼った試合スタイルが蔓延っていたプロレスの歴史を自分達の試合で変えてきたという自負が三沢にあった。


プロレスは八百長だ。
プロレスは出来レースだ。
プロレスはドロドロしていて汚らしい。
プロレスは野蛮である。

プロレスを見る行為は人生において無意味だ。


このような偏見を持つ人達には全日本プロレス最高のカード三沢VS小橋の試合を見てほしい。

三沢と小橋は戦いながら、このように訴えていたように思えてならない。

そういえば二人はどこか戦いながら、命を懸けている極闘の状況下においてエールなり魂の交換をしていたようだった。


また1998年10月の三冠戦を映像で見た伝説のプロレスラーであるルー・テーズはこのような発言をしている。


「この試合には見るべきものが何もない。レスリングの動きをほとんどないのだから批評のしようがない。言えるのは技も動きも雑だということだ。関節技を決められているのに、なぜ三沢はタイツを上げるのか。小橋の技に力が入っていないからだろう。試合中に休むのはいい。タイツを上げているのはナンセンス。力道山が生きていたらリングに飛び込んで、二人をぶん殴ったんじゃないか。立ち上がるときに相手に背中を向けている。相手を見ずに立ち上がるなんて信じられない。カウント2.9なんて私の時代には考えられなかった。レフェリーが3カウント目を振り下ろした時点で終了だろう。マットの直前で寸止めするのは、初めからそういう動きをしようとする意思がなければできないよ。」


テーズは頑固と言われており、プロレスに対する考え方は一種の原理主義だといえる。

「プロレスとはこうでなければいけない」という原理主義だ。

テーズのような意見を持つ伝説のプロレスラー達はたくさんいると思う。

自分達がやってきたプロレスこそ、本当のプロレスであり、彼らのプロレスはプロレスではない。

昔から代々に伝わる伝統的価値観という高い壁。

もちろん伝統にも受け継いでいい良き伝統も淘汰されていい悪い伝統があるのだが…


「プロレスは八百長で野蛮なものである」という世間一般的な偏見と「昔のプロレスこそ真のプロレスである」という伝統的価値観。

この二つの巨大な強敵に対して三沢光晴と小橋健太はリング上で無言の反論をしていたのではないだろうか。

そのように考察して見てみると三沢と小橋が戦っていたものとは我々プロレスファンが想像をできないスケールの相手だった。









テーズ発言を受けての1999年6月の三冠戦は試合開始時からいきなり小橋が飛びつき腕十字を仕掛けるなどグラウンドやレスリングの攻防が目立つ異色の展開となる。

その展開に三沢VS小橋が築き上げてきた肉体と精神と技術を極限に競い合う攻防がミックスされた試合だった。

途中、三沢のカウンターエルボーによって小橋の鼻骨が折れるアクシデントも発生。また三沢の右肘は鉄柵や関節技で徹底的に破壊されていく。二人の攻防は今宵も壮絶を極めた。

それでも二人は何度も何度も立ち上がった。


トップロープに三沢を座らせて雪崩式ラリアットを敢行する小橋。

この技はかつて小橋自身がハンセンに食らったプレミアムな技だった。

小橋の場外パワーボムをヘッドシザースホイップで切り返し、鉄柵に小橋を打ちつけた三沢。

この試合でも三沢のひらめきは我々の想像を越えていた。








まるで映画「グランブルー」におけるフリーダイビングの世界記録に挑むダイバー達の如く、限界を塗りつぶすような意地とプライドの張り合いの末、タイガードライバー’91、タイガースープレックス'85、エメラルドフロウジョンと最終兵器三連発で三沢が勝った。

小橋はまたしても、またしても三沢に敗れた。

全力を出し尽くした二人は、今回もしばらくの間起き上がることはできなかった。





ちなみに三沢はあのテーズが指摘した

「関節技を決められているのに、なぜ三沢はタイツを上げるのか?」

に対して次のようなアンサーを出している。


「倒れているときにタイツをかけるのは俺のくせですね。無意識にやっていると思います。ただこの場面では、これも駆け引きの一つなんです。小橋は首を取ってきたので、決まらないように上体を反らす。ポイントをはずした上で、『タイツを上げる余裕が俺にはある』と小橋にアピールする。こういう細かいところにも駆け引きがある。」


何気ない攻防、批判の的になりやすい光景にも意味と駆け引きがある。

レスリングという基本がある上で俺達は闘っている。

そして、昔の悪い伝統と偏見が満ちたプロレスではなく、肉体と精神と技術を極限に競い合うのが俺達のプロレスなんだ。


三沢光晴と小橋健太。

覚悟を分かち合った男達がリング上の闘いで熱弁した究極のプロレスから教わることは、余りにも多い…





(番外編4 追憶 極闘編 完)


1999.6.11 日本武道館/三冠ヘビー級選手権試合(全日本プロレス)
(王者)○三沢光晴 (43分40秒 片エビ固め) ●小橋健太(挑戦者)
※エメラルド・フロウジョン。第23代王者が初防衛に成功。