番外編3 伝承 前編~若林健治~【緑の虎は死して神話を遺す】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
番外編3 伝承 前編

~「三沢光晴のプロレス」と格闘した至高の名実況アナウンサー物語 若林健治~






「テレビ中継は多くの人が見てくれるわけだから、たった一人のアナウンサーが自分の実況に満足したら進歩がなくなるよ。ファンがどういう思いでこの試合を見ているのか、それを整理して喋っていかないと。自分が技の名前が即時に出た、カウント3をきっちり言えた。それは最低限の仕事で、もっと大きな俯瞰の目線で物事を捉えて実況をしなければ、ファンは満足しないだろうね。」


この発言はかつて日本テレビ「全日本プロレス中継」の実況を担当した松永二三男さんが、若手時代にジャイアント馬場からもらったアドバイスである。松永さんはこのアドバイスが自分のアナウンスの原点だと語る。

この発言ほどプロレスの実況アナウンサーにとって必要な要素を的確に表したアドバイスはない。


プロレスの実況ほどアドリブ能力と幅広い知識、言語力、状況判断などあらゆる能力が要求されるジャンルはない。

実況する団体だけでなくあらゆる団体を知識を網羅していないと昨今のプロレス技術についていくのは困難である。自分の特色を出そうとして原稿に懲りすぎると実際の試合にマッチしなかったりする。また冷静すぎると機械みたいに喋るのかと受け取られる場合があり、本当に実況アナウンサーの技量が最も問われるのがプロレス実況なのである。


三沢光晴のプロレスを的確に伝えたい。

三沢光晴のプロレスに実況アナとして負けたくない。

そんな思いを抱き、立ち向かった至高の実況アナウンサー達がいた。

この回はそんな男達の実況という名の「プロレス」である。


三沢光晴が二代目タイガーマスクの覆面を脱いだ1990年5月14日。

その試合を実況したのは若林健治さんだった。

彼は当時、メインの実況アナになったばかりだった。

若林さんは三沢が突然試合中にマスクを脱いだ直後に推測になりますが…と前置きしつつもこう実況した。


「三沢光晴として勝負に出ているのではないでしょうか!」


これは的確だった。まさしく三沢光晴の心境を現していたのだから…


若林健治さんほどプロレスを愛している実況アナウンサーは他に類を見ない。

プロレスの実況がしたいがために地方局から日本テレビに中途入社した熱血漢。

少年時代にプロレスラーになりたいという夢を抱いていたが、虚弱体質のため断念。それだったらプロレスを喋りたいという新たな夢を見つける。しかし、彼の実家は親族の借金のため息子を大学に出せるほどのお金がなかった。


それでも夢は諦められない。高校卒業後、就職して大学の進学資金を貯めた。大学進学後は3つのアルバイトを掛け持ちし、学費と実家の生活費も稼ぎながら、アナウンサーになるための勉強を重ねた。

大学卒業後、名古屋のCBCに就職した。そして、日本テレビのアナウンサー中途採用試験に応募した。

彼はプロレスの架空実況をテープに録音して送り、見事に合格した。

合格後はいきなり全日本プロレス中継の実況担当となる。

彼のプロレス愛にあふれた魂の実況は、プロレスファンの心をつかんだ。

以下の語録は「若林節」と呼ばれた。


「プロレスを愛するなら、プロレスを守れ!」
「流した汗は嘘をつかない!」
「紙吹雪の中、超獣が泣いています!」
「“イカ天”とは“イカす天龍”のことであります!」
「プロレスとは、裸の詩(うた)、心の詩、漢の詩、涙の詩、魂の詩!」


若林さんにとって三沢光晴とはどんな存在だったのか?

「僕が日本テレビでプロレス実況するようになった時、三沢さんは二代目タイガーとして凱旋しました。僕はメインの実況を目指し、三沢さんもトップを目指していた。似たような境遇でもあり、三沢さんのことは同級生だと思ってました。その三沢さんから『若林くんに実況してもらいたい』と言われたときはうれしくて…改めて実況席から見た三沢光晴を思い浮かべると技がとても美しかった。何故、美しく見えるかというと受け身がうまいからでしょう。横っ飛びのドロップキックは、キックから練習するのではなく、身体がマットに落ちたところの姿勢から練習するんです。あそこまで受け身にこだわるから美しかったんです。」


そんな若林さんは三沢の出世試合になった1990年6月のジャンボ鶴田戦の実況を担当した。その気合は半端なく、実況材料を見つけるために二日は徹夜して、調べて実況席に座った。この試合も若林節が炸裂する。


「幾多の格闘家がその頂点を目指した日本武道館。今、全日本のトップを狙う一人の若者、三沢光晴が遂にジャンボ鶴田との頂上対決のチャンスを掴み取りました。新生全日本、新たなる名勝負が始まります。三沢光晴、27歳。虎の仮面を脱いだ男が今、野性のチャレンジャーとなる。」

「武道館で三沢革命を起こせ!時代が先か!君が先か!胸にあふれる熱き思い。込み上げてくる気持ちにしかできないことがあります。」
「さよなら、タイガー!ありがとう、タイガー!がんばれ、三沢!打て!打て!返されそうだ!返されてしましました!ジャンボ鶴田、強い!強すぎる!」

「あの後楽園での激しさをこの鶴田にもう一度見せてもらいたい!あの一発であんなにも自信をつくったじゃないか!三沢!耐える三沢は見た!激しい三沢が見たい!」

「マスク時代、ヒザを手術し、ファンからもう飛ばないでという一通の手紙をもらいました。それでもタイガーは、でも飛んでほしいのだと思うとそれ以降も華麗なファイトを続けました。マスクを脱ぐにあたり十分に苦しんだと思います。両足にはまだボルトが入っているんです!三沢!さぁ、飛んだ!決死のプランチャ!」

「ショートタイツをはいたらと三沢に言ったら、ヒザに大きな傷跡があって履けませんと言っていた三沢…」

「全日本の命運を握る一戦。新たなるヒーロー三沢か?泣く子も黙るエース鶴田か?」

「その表情が好きだぞ!今まで見えなかった表情が好きだ!カメラさん、三沢をもっともっと映してください!」

「三沢、チャンス!ハイになれ!思いっきり戦え!ジャンボ鶴田、しかし何という怪物か?エイリアンか?バックドロップ、さらに返した!しかし、切り返した!カウント3!三沢が勝った!!三沢が勝った!!三沢が勝った!!この激しさ、全日本プロレスに新しい時代到来!ニューヒーロー誕生!三沢が泣いている…」

「何という攻防でしょうか。三沢コールに包まれております。嵐の船出!嵐の決意!マスクを脱いだ27歳!三沢光晴!鋭い牙を剥いて野性のチャレンジャーとなって鶴田を破りました…」

「もう涙が枯れ果てるまで泣いてもらいたい。今夜は大いに泣いてもらいたい。三沢、本当におめでとう。仮面を脱いでよかった…」


この実況を若林さんは興奮のあまりに意識が朦朧になりながら務め上げたという。まさしくプロである。

若林さんは三沢の大一番には実況席に座り、熱く激しく「三沢光晴のプロレス」を語り続けた。

あの川田との世界タッグ奪取や世界最強タッグ優勝の瞬間も、三沢が馬場越えを果たした時も若林節は爆発し、三沢光晴は試合でその実況に応え続けた。

1995年、系列のラジオ日本に出向し、実況から離れたが、ファンはそれでも若林さんの実況を望んでいた。彼の現場復帰を願う署名活動が始まり、多くのファンが参加した。

その活動が実り、日本テレビ復帰し、1999年10月武道館大会においてプロレス実況に帰ってきた。その時、会場からはなんと「若林」コールが起こった。誰もが待ち望んだ彼のプロレス実況。復帰戦は三沢光晴VSベイダーの三冠戦。やはり復帰戦でも彼は「三沢光晴のプロレス」を語ったのだった。

その第一声は「日の丸の向こうにジャイアント馬場さんが見えます…」

若林さんらしい発言だった。


全日本が分裂し、日本テレビは三沢率いるノアの中継を開始するが、その実況には若林さんはいなかった。その後、日本テレビを退職し、フリーアナウンサーとなり、プロレスと向き合った。現在、実況以外にもナレーター、アナウンススクール講師として活躍している。


若林さんは三沢の急死をこう語っている。

「三沢さんが亡くなったことは今でも信じられません。僕の身体の一部は馬場さん、一部は三沢さんでできている。だから身体がえぐられる思いなんです。」


この発言が嘘偽りのないものだということは彼の実況を一度は聞いた者達ならわかるはずである。若林健治、彼はプロレス実況をするために生まれた男。そして、「三沢光晴のプロレス」に真摯に向き合い、熱く実況の数々で多くのファンを感動させ、涙させてきた。若林実況劇場の主人公は、三沢光晴だった…

(番外編2 伝承 後編に続く)