道義~三沢光晴の生き方~【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
道義~三沢光晴の生き方





不世出のプロレスラー三沢光晴。

彼の生き方はプロレス界においても際立った生き方だった。

男気がある、義侠心がある、筋の通らない話を嫌う、約束は必ず守る…

この回では彼の生き方を示すエピソードの一部を紹介する。


三沢が率いるプロレスリングノアと新日本プロレスが秋山準と永田裕志の勇気ある行動により、関係が生まれた2001年。

永田のIWGP戦を秋山がリングサイドで観戦し、お返しに秋山のGHC戦を永田がリングサイドで観戦する。

10月の東京ドーム大会では秋山と永田がタッグを組んで武藤&馳と対戦した。

実はこの関係を裏で動いた張本人こそ三沢光晴だった。

秋山がノアをもっと大きくするために考えた上でラインができていないのにも関わらず、新日本参戦したいとフライングで発言する。

三沢は秋山の希望に添えられるように新日本との交渉を重ねて、新日本参戦を実現させた。

また、周囲からは「秋山をフリーにした方がいいのでは」という声があったというが、三沢から秋山に文句一つなかった。


新日本2002年1月4日の東京ドーム大会のメインで予定されていた藤田和之VS永田裕志のIWGP戦が、藤田の負傷により、宙に浮いてしまう。

新日本は当時GHC王者の秋山に参戦オファーをかけて、永田とのGHC戦を実現させようと動く。

しかし、新日本オーナー・アントニオ猪木がその案に反対する。

猪木は、藤田が返上したIWGP王座決定トーナメント開催を提案し、その中で秋山VS永田をやればいいという発言をしたという。

言わばジャイアント馬場の遺伝子を継ぐノアにいいところを取らせてたまるかという意思表示だったのかもしれない。


話が違うと秋山は激怒する。当然である。

秋山はドーム大会辞退を示唆する。

そこで動いたのは三沢だった。なんと秋山の代わりにドーム大会出場をするつもりだったという。

新日本首脳部の顔を潰すわけにはいかない。

受けた仕事の尻拭いは自分がやる。

例え不本意な戦いであっても、約束したことは必ず守る。

三沢光晴の器量が分かる話である。

秋山はこの一件などがあり、この人についていってよかったと実感した。


あるとき、スタッフに対してある後輩レスラーがこう言ったという。


「三沢さん、なんでこんなやつらに挨拶をしないといけないんですか?」


三沢は激怒した。後輩を殴りつけた。

彼は基本的に自分がされて嫌なことは相手にはしないタイプなので、理不尽に殴る男ではない。


「俺達が試合できるのはこの人達のおかげだろ!」


また試合が外れた選手に対して、新人レスラーが、

「あいつの試合はしょっぱいから外されてもしょうがないですよね」と

言った時も、三沢は激怒している。


「外された人間の身になったことがあるのかよ!いい気になるなよ!」


人の痛みや相手への礼儀や思いやりがない人間に対しては彼はどこまでも容赦しない。

それは三沢自身が人の痛みが分かる人間だからかもしれない。





また三沢は巡業中にこんなことを考えている。


「自分が持って生まれたものというか、使命のようなものをたまに考えたりする。誰かが水の中でおぼれている。あるいは火の海の中でもだえている。助けにいけば自分も死んでしまう。その場合は助けにいくかいかないか、そんな架空の出来事を考えたりするわけです。多分実際にはないだろうなという話を自分でつくる。もしも助けにいかずに一生それを悩んで生きていくくらいなら、助けにいってそこで死んでも別にいいかなとか思ったり。知らないふりをしてずうずうしく生きていくのはちょっとなあという感じがありますからね。助けを呼んでいるにが身内だったら、当然飛び込むでしょう。でも全然知らない子でも、きっとそうするだろうな。苦しんでいる相手の顔がいつまでも焼きついちゃうんだろうなと想像したりして。俺がいけば、もしかしたら助かるかもしれない。とりあえず、やるだけやってみるか、なんてその時に思うんですよ」


この話にも三沢光晴という人間性が詰まっている。

困っている人がいたら、見て見ぬふりができないのだ。


三沢は家族に対しても生き方を貫いている。夫人はこう語る。


「主人は子供が悪いことをしたら『なぜしたの?』と訊きます。その時にこういう理由があったからこうしたんだよって説明できた時は怒らない。ぐすったり言い訳したり、すねたりするとバーンといってました。子供達が中学ぐらいの頃に話したことがあります。『父ちゃんは確かに理不尽なところもあるけれど、人と意見が対立した時に自分の形勢が悪い時でも相手をぐーっと引き寄せて分からせることができる。それは生きていく上で必要なことじゃないか』と。人に流されず、合わせず、主張すべきことはする。子供に何かあった時は苦境から脱出するためのロープとか手助けとかはないけれど立ち去るわけでもなく、いつまでも自分で這い上がってくるのを待っている感じでしたね。人を頼らない、言い訳をしないということに対しては厳しかった」


三沢光晴は自分の中にある正義や信念を貫いた人生だったと思う。

その生き方を単語にするなら『道義』という言葉に尽きる。

人のふみ行うべき道を追求した生き方こそ三沢光晴の生き方だった。