第7章 盟主 【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ




緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
第7章 盟主 


2004年7月10日。

三沢光晴率いるプロレスリングノアは旗揚げ4年で初の東京ドーム大会を開催した。

そこで夢の天才対決が実現。

三沢が去った後に全日本社長となった武藤敬司とのタッグ対決だった。

それは矢島アナの実況で言った通り

「CGではない」のである。



 

三沢と武藤は互いの天才センスを東京ドームで披露する。

ちなみに2004年10月の全日本両国大会では今度は二人はタッグを結成した。

しかし、夢の天才はシングルマッチで戦うことはなかった…

それも運命であり宿命なのかもしれない…








2005年7月18日にノアは二度目の東京ドームに進出する。

三沢はメインでかつてのライバル川田利明との再会対決に挑んだ。

実はこの対決は2004年7月のドーム大会で組まれる予定だったが、

金銭的折り合いがつかず流れていた試合だった。 

川田は全日本を離脱し、フリーとして三沢戦を戦った。


彼にとって三沢とはどんな存在だったのか?

三沢急死後川田はこう語る。

「三沢さんと戦うときは他の相手にはない特別な感情が入っていた。

高校からずっとやってきたというのあるので」  


そして三沢にとって川田とはどんな存在だったのか?

実は三沢は川田を一言多い後輩と捉えていた。

だから川田に対しての叩き潰しは言い訳できないような完膚なきまでに敢行していたのだ。

どこまでも二人の想いはすれ違いだったのである。






男のけじめの戦いとして川田戦に挑んだ三沢。

無所属になっても俺だけの王道を貫く川田。


二人は人生をぶつけ合う。

セミファイナルの小橋VS健介戦が歴史に残る名勝負となり、

食われた感はあったが、持てる力をぶつけ合う魂の削り合いとなった。  

試合は三沢のランニングエルボーで決着した。


川田は試合後マイクでこう言った。

「三沢光晴はいつまでもオレの1つ上の先輩の力を持っていてください」

これは川田の本音かもしれない。 しかし、この対決が二人の最後の対面となる。  




二度のドーム開催と定期的な日本武道館の開催により、

メジャー団体の仲間入りをしてプロレスリングノア。

ライバルである新日本の低迷もあり、なんと売上で新日本を越えた。

(2006年決算 新日本 13億円(1月) ノア 15億円(6月))   




そして三沢光晴がある意味最後の輝きを放つのが2006年12月丸藤正道とのGHC戦であった。

王者である丸藤は三沢の元付き人であり、三沢の再来とも呼ばれる天才である。

また独創的閃きも三沢と双璧を成した。

三沢はこの試合で奇跡を起こす。   

ノアを旗揚げしてから社長業兼任のため体調に不安があった三沢。


しかし、王者丸藤に失礼のないようにスピードや閃きにも対応できるように体調を整えた。

それは丸藤への敬意と礼儀だった。

丸藤の独創的ロープワークにも三沢は対応していく。   

丸藤の執拗なニークラッシャー狙いにはモンキーフリップで返し、不知火にはジャーマンで切り返す。

久々にエプロンからウルトラタイガードロップまで出した。

技を受けながらも無限の引き出しで対応する三沢。

やはり日本一のプロレスラーだ。





もしかしたら丸藤に同じ匂いを感じていたからこそ、

三沢は多くの引き出しを出し惜しみしなかったのかもしれない。

初公開の雪崩式タイガースープレックス85まで出した。

最後は雪崩式エメラルドフロウジョンで勝利。

三沢光晴は生き残った!   


業界の盟主の座を奪ったかに見えたノア。

しかし2006年6月激震が起こる。

看板レスラーの小橋が腎臓癌のため緊急入院をしたのである。

小橋の病状を報告する会見の場に三沢はいた。

冷静に語る三沢だったが、目は真っ赤に腫らしていた…   


小橋欠場はノアに大きなダメージを残した。

結果は観客動員に直結していく。

最初はそうでもなかったが、徐々に観客が減少。

残念ながら当時のノアは三沢、小橋といった看板頼みの団体だった。   


その状況下で三沢は丸藤を破りGHC王者になる。

三沢は小橋不在を自らが体を張って乗り越えていこうとしていた。

盟主の座は蜃気楼だったのか…

三沢光晴はもう44歳になっていた。    
(第7章 盟主 完)