惜命~三沢光晴と小橋建太の覚悟~ 【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語 

惜命~三沢光晴と小橋建太の覚悟~


「僕はいつも覚悟を持って試合をしています。

覚悟とは話を聞いて理解するものではなく、見て感じるもの。

そういう覚悟を強く感じさせてくれたのは三沢さんでした。

三沢さんの覚悟に負けたくない。僕は三沢さんの背中を追ってきたつもりです。」 

三沢光晴が逝去したとき、小橋建太が語ったコメントである。

三沢光晴の最高のパートナーであり、最大のライバルだった男。

そして小橋にとって三沢とは兄貴のような存在だった。

三沢光晴と同等の覚悟を持ってプロレスをした男にとって三沢光晴とは? 


小橋は1987年全日本に入門する。

その時、三沢は二代目タイガーマスクとして活躍中。

面接のため体育館にきていた小橋はこのとき二代目タイガー時代の三沢と対面している。

マスク越しで見える優しい目。

小橋にはいつまでこの時の印象が強かった。 

1990年、小橋は二代目タイガーとのコンビでアジアタッグ戴冠。

小橋にとっては初めてのタイトルだった。

しかし二代目タイガーはマスクを脱ぎ、素顔の三沢光晴となる。

三沢は世界を目指すため、小橋と保持していたアジアタッグ王座を返上した。 






三沢は全日本に新時代を築くべく超世代軍を結成。

小橋もメンバーとして参加した。

三沢や川田の大一番にはセコンドとして熱く見守り、一緒に戦う小橋の姿があった。

やがて川田が超世代軍を離脱し、小橋は三沢の正パートナーとなる。 


三沢&小橋。

1990年代を代表する名タッグチームである。

世界最強タッグ決定リーグ戦を3連覇したのはこのチームだけである。

このチームの特徴は互いに身を犠牲にして、

引くところと押すところをわきまえた信頼で結ばれたコンビだった。 


ある日、こんな試合があった。

三沢は眼の負傷を抱え、小橋は太股肉離れという体調が最悪な状態で挑んだ世界タッグ戦。

川田&田上の聖鬼軍の猛攻にあい、劣勢になった三沢&小橋。

この状況に小橋は三沢を庇い身を挺して守ろうとしたのである。 


また、小橋が世界最強タッグを初優勝をした試合。

どうしても小橋にピンフォールを取らせたい三沢は終盤、川田に投げっぱなしジャーマンを放ち、

小橋に勝負を託した。そして小橋はそれに応えて川田に勝利。

二人は試合後、抱き合っていた。 
特に小橋は涙を流しながら…






タッグを解消してからはエース三沢越えに挑むことになった小橋。

1997年、1998年のプロレス大賞年間最高試合は三沢対小橋だった。

二人の戦いは限界を超えていく究極のプロレス。

しかし危険すぎる攻防は二人の肉体を蝕んだしまう… 





1998年10月の三冠戦の試合後。

敗れた小橋は勝者・三沢の控室に訪れ、こんな会話をしたという。

小橋「三沢さん、ありがとうございました」

三沢「ありがとう小橋。こんな試合をしてたら俺達本当に死ぬな」

小橋「本当ですね。」


不惜身命。

三沢対小橋ほどこの言葉が適切な表現のプロレスはない。

プロレスのためなら自分の身体や命は惜しくない。

三沢の覚悟に対抗する小橋。

小橋の想いに覚悟で応える三沢。

覚悟がぶつかる極闘はある意味信頼がなければできないプロレスだった。


三沢は小橋戦についてこう語る。

「やる前の気持ちとやった後のキツさを考えると小橋とやるのは凄く嫌。

でもやれるんなら、やってみろよという部分もあるし、

ここまでやってくるなら俺もやらなきゃみたいな、違う意味で信頼感はあった。」






2003年3月1日。

プロリスリングノアで実現した三沢対小橋。

この試合前に二人はこう語っている。

三沢「俺と小橋はプロレスの深い所まで潜っていく。ファンがどこまでついてこれるか…」

小橋「みんなが胸を張ってプロレスが好きだと言える試合にする。」 

試合は死闘になる。

二人は言葉通りのプロレスを体現する。

多くのプロレスファンが感動し、涙した。

試合は小橋が勝ち、悲願のGHC王座を戴冠した。

だがパートナーとして、ライバルとして信頼と覚悟で契りを結んでいた三沢と小橋の勝利だった。





三沢がリング渦に巻き込まれたとき、

小橋は体調不良で移動用バスで休んでおり、駆けつけることはできなかった。

遺体となった三沢の冷たい手を握った小橋。

その時、三沢が亡くなったことを実感した。

彼は、心に大きな穴があいてしまった。 


小橋は語る。

「三沢さんとは、試合で会話をしたような気がするんです。

技を打ち合い語り合うような試合をしてきました。

三沢さんには負けたくない、三沢さんを目標にしてきました。

だからぽっかりと心に穴が開いてしまったという感じです…」 


それでも小橋は立ち向かう。

「三沢さんは自分自身に負けたくないと思って、

負傷を抱えながらリングに上がっていたはずです。

そんな三沢さんに、やっぱり僕は負けたくない…」

例え三沢が逝去しても、小橋は三沢の覚悟に負けたくなかったのだ… 





小橋は腎臓ガン、両膝や肘の負傷で、引退危機的状況の中でも、何度も何度も復帰した。

まるで起き上がりこぼしのように。

東日本大震災チャリティー興業では武藤敬司との奇跡のムーンサルトの競演で、

感動と勇気を与えたのである。 


しかし、小橋の肉体は限界を越えていた。

首のMRI撮影の結果、三沢よりもひどい状態であることが判明した。

医者からは即引退か即手術という二者択一の選択を迫られた。

悩みに悩んだ小橋は首の手術を決断。

もちろん復帰するためであった。 


骨盤の骨を首に移植し、骨を取った個所にセラミックを入れる大手術は無事成功する。

しかしセラミックを入れた骨盤が割れてしまい、小橋は歩けなくなってしまう。

さらに他の古傷も疼き、小橋はリングに立てる肉体ではなくなってしまった。 


絶対絶命の小橋。

引退するべきか、リング復帰するべきか、毎日自問自答していた。

まだ俺はプロレスをやりたい… 

しかし、一方でこう考えるようになる。

「もし、俺がリングに立って、何か事故が起こってしまったら…。」 


小橋は悩みに悩んだ結果、引退を決意する。

小橋建太のプロレスがもうできない、

さらにリング渦によってもうファンを悲しませたくないという二つの想いが引退を決断させた。

しかし、もう一度だけリングに上がりたかった。

けじめをつけたい… 


小橋は1試合だけ復帰し、引退興業をすることにした。

彼はこう考えた。

選手の引退後、誰もが羨むような生活を送っているという話は少ない。

後輩たちが夢を見られるような引退試合をして、誰もが祝福するような第2の人生を歩きたいと… 


2013年5月11日。

日本武道館で小橋は武藤敬司、佐々木健介、秋山準と組んで、

かつての付き人であるKENTA、潮崎豪、金丸義信、マイバッハ谷口と引退試合を行った。

小橋は全力で戦った。付き人達の攻撃も受け切ったのだ。 

最後は渾身のムーンサルトプレスで勝利した。


立派なラストファイトだった。

感動で多くのファンは一目を憚らず涙を流していた。

小橋はプロレスラーとして最後まで生き残った。

師匠・馬場や兄貴・三沢が果たせなかった引退試合を務めた。 


リング上のインタビューで、矢島学アナからこう聞かれた。

「三沢さんにはどんな報告をしましたか」

小橋はこう語った。

「三沢さん、馬場さんに心のなかで引退しますと、天国に届くように言いました」

すると場内は三沢コールに包まれた。 

小橋はこの状況に

「今の三沢コールは引退試合ができなかった三沢さんへのみんなのコールだと思います」 

とファンに感謝を述べた。

私には天国の三沢が「俺のことはいいよ、もう」と照れくさそうに笑ったような気がした…





プロレスのために自分の身体や命を惜しくないという覚悟で戦った二人のプロレスラー。

三沢は本当にプロレスに命を捧げて殉職してしまった。

小橋はプロレスの将来を考えてけじめをつけて引退し、第二の青春を歩んでいった。  


小橋はこう語る。

「三沢さんがもし生きていたら、みんなのお手本になるような引き際を見せ、

第二の人生の道しるべを示してくれたんだと思います。

こういうプロレスラーがいたんだということを、三沢さんの功績を後世に伝えていきたい。」 


プロレスというジャンルに誇りと夢を持ち、

命がけで我々に感動と勇気を与えてくれた三沢光晴がこの世に遺していった緑色の神話。

彼は我々一人一人の心の中で生きる。

また明日には彼に魅せられる者も現れるだろう。

三沢光晴は実はまだ生きているのである。

まるで松田優作やブルース・リーのように永久の英雄として…

(惜命 完)