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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
矜持
~三沢光晴と川田利明 男たちの挽歌~
三沢光晴と川田利明。
二人の出会いは1979年、足利工大付属高校レスリング部の丸いマットだった。
三沢が高校2年生、川田が高校1年生。
二人は高校の先輩後輩だった。
三沢が全日本プロレスに入門し、後を追うように川田も全日本へ。
その後、タッグパートナーとして、ライバルとして二人はぶつかり合った。
これはプロレスに人生を捧げた男と三沢光晴を追い求めることでプロレスに人生を捧げた男の壮大な物語である。
川田利明はレスリング国体優勝の実績を引っ提げて、高校卒業後、1982年に全日本プロレスに入門した。
実は川田は中学時代に新日本プロレスの入門テストに合格していたが、先生に引き止められ高校に進学している過去があった。
しかし、デビューしてから205連敗と負け続けた。
二代目タイガーマスク空手特訓のスパーリングパートナーとなったことにより、川田にもタイガーに変身させて、タイガーマスクブラザーズとして売り出すという計画もあったが、実現することはなかった。
アメリカ海外遠征から帰国しても陽の当たらないプロレス人生。
川田は天龍源一郎率いる天龍同盟に入り、冬木弘道とのタッグチーム・フットルースを結成し、大暴れする。
ちなみに二代目タイガー時代の三沢は川田と戦い、かなり血が昇ってしまい、「川田の野郎、基礎から教えてやらないとだめだ!」と試合後に激怒していたらしい。
1990年、天龍同盟が解散。
天龍が全日本プロレスを離脱し、川田は大将には付いて行かず、残留の道を選んだ。
そして二代目タイガーのマスクを脱いだ三沢とともに超世代軍を結成。
全日本のエース・ジャンボ鶴田に立ち向かった。
超世代軍VS鶴田軍のメインイベントは連日20分以上にわたる激闘となり、全日本は活性化する。
特に川田の危ない香りと佇まい、喧嘩っ早いファイトは人気を呼んだ。
コスチュームも天龍同盟時代の派手なタイツから、天龍カラーの黒と黄色のタイツとなり、飛び技主体から天龍源一郎を継承するかのようなスタイルへと変貌する。
サッカーボールキック、起き上がりこぼしチョップ、背面飛び式ダイビングエルボードロップ、ステップキックなど技までも引き継いでしまう。
次第に天龍のコピーではなく、川田利明として成長を果たした。
1992年のスタン・ハンセンとの三冠戦はプロレス大賞ベストバストに選ばれた。
そして、三沢が三冠を奪取し、初防衛戦の相手となったのが川田だった。
全日本20周年記念試合、メインイベントを務めた。
三沢とのタッグで世界タッグも奪取し、世界最強タッグ決定リーグ戦を制覇した。
しかし、三沢との足利工大付属コンビの仲はよくなかったという。
1991年の最強タッグで三沢は眼窩底骨折の怪我に見舞われる。
団体側の発表では試合中の負傷とアナウンスされたが、実は川田と飲みの席で大喧嘩となり、酔った川田のパンチが三沢の目に直撃して怪我をしたというのが真相だという。
三沢は超世代軍時代の川田についてこんなことを言っている。
「お前、ちゃんとやれよという試合ばっかり川田はやっていました。試合中に気にいらないことがあると、ふてくされて、パートナーがやられても、タッチしなかったり。俺と小橋と川田で組んで6人タッグやってたとき、何が気に入らないのか、試合を投げ出して、怒って帰っちゃったこともありましたね。小橋がフォールにいって、俺はしょうがないから外国人二人を抱えて、やっとにことでスリーカウント。」
三沢にとって川田の気持ちの部分については後輩である前に、プロとして合わないと思っていなかったのかもしれない。
1993年2月の後楽園大会試合終了後、川田は爆弾発言をする。
「何か戦ってて面白くないね。戦っている俺が面白くないんだから、見ているお客さんも面白くないと思うよ。別に俺は超世代軍が嫌なわけじゃない。でも今のままでは俺も会社もダメになる」
これは前年末にジャンボ鶴田が戦線離脱し、田上明が大将となった田上軍との抗争になり、力関係でも超世代軍が圧倒的有利になった状況への警鐘だった。
しかし、川田は行動を起こすことなく、超世代軍に残り、黙々と戦っていた。
この状況に黙っていなかったのが三沢だった。
悩んでなかなか答えを出せない川田を断罪した。
「単なるあいつの甘え。別にこっちにいろって言ってるわけじゃないんだから。個人の自由。もう一歩に勇気が出ないだけ。自分からそういうことができない奴だから。はっきり言って川田のそんな勇気はないけど。」
三沢の言葉を受けた川田は超世代軍を離脱し、田上と聖鬼軍を結成した。
遂に三沢の反対側にたつ道を選ぶ。
三沢と川田の長きにわたるライバル関係が始まった。
川田は三沢が相手になると燃えた。
ハイキックを顎に打ち込んだり、右ストレートでぶん殴る。
ストレッチプラムやスリーパーなどは叫びながら全身全霊を込めて、絞めた。
バックドロップは脳天から落とす危険さだった。
迎え撃つ三沢は、とことん川田の攻撃を受け止めた上で、徹底的に反撃した。
エルボーは川田に放つときだけは特別、力強かった。
俗にいう120%エルボーモードだった。
危険すぎると封印していたタイガードライバー91を解禁した相手も川田だった。
また、川田への投げっ放しジャーマンが、脳天から落下し極限まで肉体を酷使する四天王プロレスを生んだ。
三沢はなぜ川田に対してここまでの冷酷な仕打ちをしたのか?
「川田は中途半端にやると、中途半端なことを言い出すやつだから。『この次やったら、絶対負けない』とかね。それまで積もり積もったがあった。だからやらなければいかん。」
ちなみに三沢と川田の三冠戦は過去8回実現しているが、なんと全て王者・三沢に挑戦者・川田という図式だった。これは三沢と川田の戦いを象徴していたのではないだろうか?
常に三沢に川田は挑み、壮絶に散り、時には倒し喜びに浸る。
また三沢は常に川田を受け止め、冷酷に打ちのめし、川田に対する壁であり、最高峰の獲物であり続けた。
そして、プロレス界の頂上決戦でありながら、どこかハードボイルドで、まるで壮絶な撃ち合いの末、屍だけが浮かんでいるマフィア映画のようであった。
三沢は川田との戦いについてこう語る。
「いちばん感情が入る試合だったと思う。ある意味、川田は一番俺に勝ちたいと思っているやつだろうなというのもあるしね。だからこいつには負けられねぇなというのもあったと思う。」
2000年6月、全日本プロレスに激震が起こる。
当時全日本プロレス社長だった三沢光晴が辞任し、全日本を退団したのである。
全日本の大半の日本人選手、スタッフは三沢に追随した。
しかし、三沢の後輩・川田利明は全日本残留の道を選択した。
三沢を追い求めてきたプロレス人生だった川田。
自らの信念を貫くために全日本を退団した三沢。
二人の道はここで別れた。
全日本を退団し、新団体プロレスリング・ノアを旗揚げした三沢。
対する川田は、渕正信とマウナケア・モスマン(太陽ケア)と共に、全日本を守ることになる。
川田は全日本残留を表明するときにこう語った。
「僕の使命は、馬場さんが築いた全日本プロレスを守っていくことだと思ってます。」
御大・馬場が築いた団体を存続するために、ライバル団体・新日本プロレスとの対抗戦に出陣した。
戦力的にも圧倒的不利な状況で、たった一人で、新日本の精鋭たちを倒してきた。
作家の内館牧子氏は川田をこう評している。
「私は川田が全日本残留と聞いても驚かなかった。以前から彼に江戸の職人のたたずまいを感じていたせいだろうと思う。こういう一徹者は動かないだろうと無意識に思っていたのだ。川田が新日本との対抗戦を希望すると宣言したときには仰天した。職人は己の心技体を磨くことにのみ命をかけるから職人なのだ。全日本を守るために、新日本との交流という最後の切り札を切るほど、川田は一徹な職人だったと言える。」
そんな江戸の職人・川田は、全日本、いや「川田利明」として生き抜くために、
あらゆるリングに上がった。
プロレスラー、芸能人などが上がるリングハッスルにも参戦した。
黄色のトラックスーツに着用し、まるで和製ブルース・リーと化した彼はデンジャラスKからハッスルKに変身した。
マイク合戦でものまねやものまねをし、江頭2:50ならぬ川田19:55となり、エキセントリックな行動やネタをした。ハッスルポーズという腰を突き上げることもした。
彼が守った全日本は、武藤敬司という新しいリーダーのもとで再出発したことにより、新しい自分と一レスラーとして生きるために無所属となった。
川田の心の中では、どんなに道が違えど、離れていても、口にはしなくても、遠くに三沢光晴を見据えてプロレスをしていたのである。
いつ会えるか分からない、もうリングで会えないかもしれない、でも彼は、ノアを率いる三沢に負けたくないという意地があった。
そして、二人はリングで再会を果たす。
運命の決戦は、2005年7月18日東京ドームのメインイベントとなった。
川田とのけじめをつけるために戦うことを決意した三沢。
三沢とのリングでの再会に全てを懸けた川田。
二人は、全てをぶつけた。
そして、互いにすべてを受け止めた。
三沢は、エルボー、フェースロック、タイガードライバー、エメラルドフロウジョン、タイガースープレックス。
川田はキック、パワーボム、ストレッチプラム、垂直落下式ブレーンバスター。
それは二人の戦いの総決算だった。
試合終盤、三沢と川田が渾身の打撃戦を繰り広げる。
三沢と川田は、声を上げながらエルボーとキックを交換する。
二人が出会って26年、これが21度目の決戦。
互いが信じて生きてきた人生を相手にぶつけて、聞き入れる魂の会話をしているように私には見えた。
どこまでもすがりつく川田に、三沢はしつこくエルボーで突き放す。
川田は無意識状態になっても、三沢に反撃する。
そして、最後はランニングエルボーで、川田が前のめりに倒れて、決着した。
27分4秒、戦いは終わった。
大の字なって倒れる両雄に実況の平川健太郎アナはこう実況した。
「まるで仲のいい兄弟のように二人が大の字になって倒れています」
もしてして三沢VS川田とは、プロレスというリングで成立させた兄弟喧嘩だったのかもしれない。
試合後、川田はマイクでこう語った。
「打つはずだった終止符が打てなくなりました。
三沢光晴はいつまでも自分の一つ上の力を持った先輩でいてください。」
また試合後の記者会見ではこういっている。
「自分がやってきた5年間が、一日で無駄になった」
川田は、再戦を希望したが、ノアサイドは受け入れることはなかった。
そして、この対決が最後の対決となり、川田にとって三沢との最後の対面となってしまう。
通算シングルマッチ成績
21戦 三沢の13勝3敗5引き分け。
三沢が逝去した2009年。
川田は追い求めた三沢の突然の死についてこう語った。
「今思えば、三沢さんが頑張っていることによって、自分のレスラーとしての存在理由が維持されていたのかな…。三沢さんが亡くなってから、プロレスに対する気力が薄らいでいるんです。三沢さんが頑張っているから、自分も頑張ろうと、心のどこかで思っていたのかもしれない。あの人の試合を見なくても、あの人に会えなくても、あの人と戦わなくてもよかった。三沢さんがいるだけでよかった…」
川田はその後、本当にプロレスからセミリタイアし、飲食業に転身し、第二の人生を送っている。
この発言には、彼の三沢への想いが全てつまっている。
三沢光晴を追い求めるためにプロレス人生を生きた男。
それが川田利明なのかもしれない。
そしてこのような一徹な生き方をすることが彼にとっては矜持だったのである。
三沢光晴と川田利明。
二人の関係は実に複雑である。
高校の先輩後輩でありながら、犬猿の仲とも言われた。
名勝負でありながら、どこか冷たいハードボイルドな世界が広がっていた。
互いに負けたくないという意地とどこか人生観の違いが生じるいびつな感情が交差したときに、ある種「一線を越えた戦い」へとエスカレートした。
どこまでも一人のプロレスラーを追い求めることに人生を捧げ、生きがいにした男がいた。
そして男の想いを受け止めて、敢えて非情に徹することで、越え甲斐のある壁であり続けた男がいた。
二人の男がリングで戦うことで奏でた悲しくて儚い挽歌。
その歌は、いつまでも人々の心を打ち続ける事だろう…
(矜持 完)