第8章 夢幻 【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
第8章 夢幻 


三沢光晴は2007年GHC王者として奮闘した。


1月に黒船・森嶋猛を辛くも破りV1。

4月には業師・佐野巧真を破りV2。

6月は最強外国人のバイソン・スミスを破りV3。

7月には大砲・田上明を破りV4。

9月には前GHC王者丸藤正道を破りV5を達成した。 






10月には“サモアンスープレックスマシン”サモア・ジョー(TNA)を破りV6。

11月にはアメリカ・ニューヨークでKENTAを破りV7を達成。

一年間防衛を果たした彼は今まで縁のなかったプロレス大賞MVPを獲得した。

当時史上最年長45歳での最優秀選手賞だった。 

12月の日本武道館。

三沢は腎臓癌を克服した小橋の復帰戦の相手を務めた。


小橋建太復帰戦

三沢光晴&秋山準VS小橋建太&高山善廣


前例がない腎臓を全提出してのスポーツ復帰を果たした小橋に三沢は容赦しなかった。

エルボーにも力を入れた。

全力で受けて全力で倒す。

それが三沢の流儀だった。 






小橋は後に語る。

「僕が闘病中に三沢さんは『早く治すよう頑張れよ』とか

『復帰する日を待ってるぞ』とか一度も言いませんでした」 

それでこそ三沢らしい美意識である。

小橋が帰ってきてほしい気持ちは強いが無理をさせたくなかったのだ。


しかし自ら欠場することはなかった。

満身創痍のはずなのに何故か?

三沢はこう語る。

「地方にいくと未だに三沢光晴を観にくるお客さんがいる。

1年に1回の地方興業に俺が出てなかったらどう思う?

自分を商品として客観視しないといけないんだ」


それでも三沢は他のレスラーには

「体の調子はどうだ?無理するなよ」と気遣っていた。

負傷や最悪の体調は自分が我慢すれば済むことと考え、

亡くなるまで欠場することなくプロレス道を全うした三沢。

まさしくプロレスに殉じた男である。





GHC王者三沢光晴は2008年3月に森嶋猛に敗れて王座陥落した。

その頃からノアの観客動員数は減少していく。

また日本テレビのノア中継の視聴率も低迷していく。

盟主と言われ、プロレス界で一人勝ちと言われていたあの頃は戻らない。

ノアの天下はうたかたの夢だった…





観客動員が減り、三沢は大きな決断をしている。

一部選手に対するリストラ。

1年間の猶予期間を与えて解雇する。

これは苦渋の決断だった。

彼らは三沢逝去後に2009年末日に契約解除されているが、

その1年前に三沢から申告していたのだ。 


そして2009年3月に日本テレビで放映されていたノア中継は打ち切りとなった。

これにより『日本プロレス中継』時代から50年以上続いてきた

日本テレビのプロレス中継の歴史の幕を閉じた。


しかし、三沢の右腕である仲田龍は強気の姿勢を見せていた。 
週刊プロレスでのインタビューで仲田は売上悪化している状況で

事務所と道場、合宿所、会場が同居した自社ビル建設をぶち上げた。

これは強がりである。

だがこの発言には理由があり、詳しく触れるのは控えるが例の黒資金を充てにしていたので

このような強がりにつながった。 


三沢はこの頃になると妻や関係者に引退を口にするようになった。

2009年5月に彼は妻に引退構想を口にする。

家族に仕事の話をしない男が重い口を開いたのだ。

決意は固かった。


「やめるのは50歳だな。もう十分やった。」 

さらに三沢は語る。


「きょうやめます、でやめたいな。引退興行はしない。

復帰は絶対しない。引退は人でいうところの死だ。

死んだ人が生き返るか?ないね。」


彼の肉体はさらに急速に悪化していき、

結果的に引退は叶わなかった…



 


経営悪化、テレビの打ち切り、興業内容の行き詰まり…

この現状に心配になった三沢の弟子・鈴木鼓太郎はある日、三沢にこう聞いた。

「社長、会社は大丈夫ですか」

三沢の答えは力強かった。

「大丈夫だよ。プロレスはもう一度ゴールデンで放映される時代がくる。

俺が保証するよ。」

三沢は諦めていなかった。 


会社内部のゴタゴタ、派閥争い、地上波中継終了、黒資金、仲田龍氏の存在など負の連鎖がノアを襲う。夢、幻の如くなり…。

しかし、それでも三沢は己の理想と信念をあのリング渦が起こるまで追い求めていたのである。 

そして2009年6月13日、三沢光晴リング禍により逝去。

彼の死が与えた影響はあまりにも大きかった。


社長を失ったノアは田上明を社長、丸藤正道を副社長とする新体制を発足。

さらに三沢の腹心・仲田龍がGMに就任した。 

また三沢光晴追悼興行として9月27日日本武道館、10月3日大阪府立体育会館で開催された。

三沢光晴が創ったノアを守っていく新たなる戦いが始まった。

残された者たちは運命に導かれた修羅を生きていくのであった。 
(第8章 夢幻 完)