第6章 船出 【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
第6章 船出 


全日本を飛び出し、プロレスリングノアを旗揚げした三沢光晴。

しかし、その内情は厳しかった。

当初は若手数人を育てて運営していく予定が、選手、スタッフ含めて50人の大所帯となった。

三沢と懐刀の仲田龍は資金集めに苦戦していた。 


借りれるところにはすべて借りた。それでも社員の給料は払えない。

実は三沢は自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料にあてていた。

自分についてきた仲間に不憫な思いをさせない。

三沢は社長の前にみんなの親分であった。






その中で旗揚げしたプロレスリングノアは、

全日本時代には取り入れなかったレーザー光線や花道など演出にも力を入れた。

試合スタイルは事実上の王道スタイルだったが、

今の時代に合わせた方舟スタイルの確立を目指した。

そして、ノアに初めてタイトルが誕生する。


2001年3月に開幕した初代GHCヘビー級王座決定トーナメント。

GHCとはグローバル・オナード・クラウンの略で和訳すると地球規模の崇高なる王位。

そのベルトは黄金に燦然と輝いていた。

三沢が依頼したデザイン通り、シンプルで派手なベルトだった。


旗揚げ当初は体調が思わしくなかった三沢。

しかしどうしてもトーナメントに優勝してベルトを巻きたい。

体調を整えて、決勝進出を果たした。

決勝の相手は当時ノーフィアーで暴れまわっていた怪物・高山善廣。

三沢はこの試合で執念を見せる。





「どうしても勝ちたかった。結果に一番こだわった試合だった」

と後に三沢は述懐する。

三沢は高山の打撃、パワー殺法、スープレックスを全て耐え抜く。

途中、高山の打撃で三沢のあごが裂傷を負い大流血になるアクシデントが発生する。


しかし、三沢は諦めない。

腕十字やヒザ十字などの関節技、得意のエルボーは全力で振りぬく。

やがて高山の体力は削られ、三沢の独壇場となる。

最後はエメラルドフロウジョンでカウント3!

自らが創設したGHC初代王者となったのだ。





当初、ノア旗揚げ時は全日本時代に放映していた日本テレビがつかなかったが、

潜伏期間を経て2001年4月にノア中継は日本テレビで放映スタートする。

三沢のGHC戴冠は地上波で放映された。

ノア中継は2009年3月まで続いた。


三沢はノアを旗揚げしてから夢のカードを次々に実現させた。

まず新日本を離脱しZERO-ONEを立ち上げた橋本真也を参戦させ、

三沢とのタッグ対決を実現させた。

また、2001年3月のZERO-ONE旗揚げ戦に参戦した。






ZERO-ONE旗揚げ戦のメインイベントで組まれたのは

橋本真也、永田裕志VS三沢光晴、秋山準という超絶カードだった。

三沢はどこまでも三沢。

橋本や初対戦の永田相手でも己を貫き、技を受けきり、倍返しのエルボーを打つのだ。





試合後、橋本のライバルである小川が乱入し、三沢にチョッカイをかけた。

三沢はなんと小川に突っかかった!

この事件がきっかけで4月のZERO-ONE武道館大会で二人のタッグ対決が決まり、

三沢は満天下にエースの力を示したのだった。





この試合の解説者・金沢克彦氏は試合後、三沢をこう評した。


「なぜ三沢光晴がプロレス界のエースと呼ばれる男なのか、今回の試合でしっかりと証明された」


橋本真也、小川直也とのタッグ対決で男を上げた三沢光晴。

彼はプロレスファンに新しい夢を提供した。



三沢光晴、新日本プロレス参戦…。


きっかけは以前から交流があり信頼をしていた蝶野正洋が、

新日本プロレスの現場監督に就任し、オーナーであるアントニオ猪木、

格闘色が強くなっていた当時の新日本マットで

己が信じる正統なプロレスを見せつけるために三沢に相談したのだ。


蝶野が三沢に相談した内容は、

2002年5月の新日本東京ドーム大会で自分と三沢でシングルで対戦してほしいとのことだった。

三沢は蝶野の強い思いに男気で応えた。


蝶野は後にこう語る。

「三沢社長が自分との対戦を受けてくれなかったら新日本は潰れてた。

三沢社長によって新日本プロレスは救われた…」

三沢は弾ける。

闘魂VS王道と謳い文句にも乗っかった。

実は本人は蝶野戦を楽しんでいた。





三沢は馬場のランニングネックブリーカードロップを出したり、

猪木の卍固めまで出した。

結果は30分時間切れ引き分けだった。

蝶野戦は三沢が武器にするサムシングという引き出しのオンパレードだった。

夢の対決から三沢は再会対決まで実現させる。


再会対決の第1弾は若手時代の盟友冬木だった。

FMW崩壊後に独立した冬木は三沢に照準を絞った。

2002年4月の有明コロシアム大会でシングルが実現。

二人はまるで前座時代に戻るような攻防を披露した。


冬木との再会対決を制した三沢の次なる再会相手は越中詩郎。

若手時代のライバルで、あのメキシコ時代の戦友だった。

1984年にメキシコで別れた二人。19年の時を経て2003年12月横浜大会で実現した。


冬木戦と同様に若手時代に戻ったかのような攻防をする二人。

しかし、越中は三沢の体調の異変に気付くのだった。

「あまりにも三沢の体が動かなくてびっくりした。疲れきって動けてないみたいな…」






越中との再会マッチも制した三沢。

まるで全日本ではできなかった構想や夢を吐き出すように戦い続けた。

そして、2003年3月1日。

三沢は小橋建太とのGHC戦で21世紀のプロレス界で屈指の死闘を行う。





誰のために三沢と小橋はあの日、命の削り合いをしたのだろう…

当時、プロレス人気は翳りを見せ始め、K-1やPRIDEといった格闘技に押されていた。

二人はプロレスの力を信じて極闘を演じたのだ。


二人の攻防に武道館は熱狂。

特に三沢が仕掛けた花道から場外へのタイガースープレックスは悲鳴とどよめきが起こる。

小橋が死んでしまう…

しかし、二人は立ち上がり最後まで振り絞るように戦い続けた。






三沢VS小橋戦は低迷していたプロレス界にも、格闘技界にも見せつけた珠玉の名勝負だった。

三沢が立ち上げたノアは「プロレスが見たい」ファンのハートをがっちりとつかんでいた。


試合は小橋が三沢を破り念願のGHC王座獲得する。

この死闘以降、ノアは迷走するプロレス界の中で正統なプロレス道を突き進み、

新日本プロレスから盟主の座まで奪うまでに成長していくのであった。

(第6章 船出 完)