心友 ~三沢光晴と冬木弘道の不思議な関係~【緑の虎は死して神話を遺す・三沢光晴物語】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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緑の虎は死して神話を遺す
平成のプロレス王・俺達の三沢光晴物語
 心友
~三沢光晴と冬木弘道の不思議な関係~


三沢光晴は、仲間にも恵まれ人望もあるプロレスラーである。

そんな彼だがプライベートとビジネスは線引きをする男。

しかし、彼の心友・冬木弘道との不思議な友情関係は、

時には三沢でさせも図らずも公私混同してしまうほど深い物語があった。 


二人が初めて出会ったのは、1981年の全日本プロレスの道場だった。

冬木は、元々国際プロレスでプロレスデビューした新人だった。

国際プロレスが崩壊後、マイティ井上や阿修羅原らとともに

1981年の秋に全日本プロレスに入団した。

冬木が全日本入団したとき、三沢はデビューしたての新人だった。

出会った当初からお互いに気が合ったという。

当時の全日本の合宿所の仲良しグループは、

三沢、冬木、リングアナの仲田龍、先輩の越中詩郎だった。






ちなみにこんなエピソードがある。

特に三沢、冬木とリングアナの仲田龍は親密だったそうで、

仲田が彼女とデートにいくときになぜか三沢と冬木が一緒についてきてしまったという。

また越中の思いつきの行動には三人はかなり振り回されたという。

冬木は若手時代の三沢に接して感じていたのが、

ずば抜けたプロレスセンスと喧嘩の強さだったという。

冬木曰く、三沢は本当の喧嘩になったら、相手の息の根を止めるまでやる根性があるという。

だからコイツとは喧嘩をしちゃダメだと…





全日本時代の三沢と冬木はリング上の接点はあまりなかった。

二代目タイガーマスクになった三沢は浮上できずリングでもがき、

天龍同盟入りした冬木は川田とのタッグで活躍していたが、

両者とも中堅から脱していないポジションにいた。

しかし、二人の運命は大きく変わる。


1990年の全日本大量離脱騒動である。

天龍を筆頭に数多くのレスラーが離脱し新団体SWS旗揚げに参加した。

三沢は天龍とは繋がりがあるが残留し、冬木は天龍を慕い離脱、SWSに参加していった。

冬木は親友の三沢には一言も告げずに全日本を去っていったという。

こうして仲のよかった二人の関係は断絶することになる。

会うこともなければ、電話で話すこともなかった。

当時の全日本は鎖国体制だったので接点は今後ないと思われた。


1998年、FMWで自らが掲げたエンタメプロレスを実践し、

革命を起こそうとしていた冬木が全日本参戦をするべく、三沢に相談したのである。

理不尽大王、ほら吹きと言われた冬木だが、この全日本参戦は本気だった。


冬木は全日本に上がれるのなら御大・馬場に土下座をしてでもという覚悟があった。

しかし直訴する前に馬場が急死してしまう。

冬木は馬場への義理を欠いた状態では全日本には上がれないと考え、

自ら全日本参戦の願いを閉まった。


この頃から冬木は三沢主催の忘年会には参加したりするほどに関係は修復。

互いに嫌いになったわけではない、あくまでも進む道が分かれただけなのである。


1999年、三沢は馬場逝去後、新しい全日本の社長になる。
しかしオーナーサイドとの軋轢もあり三沢は疲弊していく。

2000年6月、社長を辞して全日本離脱。

多くの選手を率いて新団体プロレスリングノアを旗揚げした。

このノア旗揚げが、冬木との関係をより接近させることになる。


冬木は持ち前のずうずうしさを発揮し、

三沢がけじめの全日本参戦をしていた会場前にアポなしで現れ、FMWにノア選手参戦を直訴した。

三沢はは全く相手にせず、移動バスに乗り込むが、冬木はしつこくタクシーで追跡した。

さすがの三沢も根負け、ノア選手のFMW参戦が決まった。


そして時はたって2002年3月、FMWが崩壊してしまう。

自身の団体を旗揚げするために奔走していた冬木は再び理不尽要求をする。

自らのノア参戦を勝手に宣言したのだ。

「ノアにいって、ちゃんとしたプロレスができることを証明する。

出てやるからカードを組め。もし拒否したら、中継のある試合に乱入する。」

理不尽大王・冬木らしい発言である。

三沢はここである条件を出すのである。


三沢の条件はなんと、

冬木の自宅がある横浜から試合のあるディファ有明に15時までの走ってこいだった。

冗談のようなやりとりである。

冬木は何とか14時45分に息を切らしながら走ってきた。奇跡が起こった。

しかし、一部情報筋によると冬木はディファに近いコンビニまで、

タクシーで駆けつけそこから走ってきたという。その距離は100mほどだった。

理不尽大王らしいエピソードである。


冬木は不敵な笑みを浮かべてこう言った。

「結構遠かったな。三沢には嘘でしょうと言われた。

内心はスゲェと思っているはずだよ。

もしカードが組まれなかったらディファに車を突っ込む。ディファ有明炎上だ。」

三沢は自ら冬木とシングルで戦うことに。






2002年4月7日、有明コロシアムで18年ぶりの一騎打ちをした三沢と冬木。

互いのプロレス人生をぶつけ合い、

時には前座時代に戻ったかのようなオーソドックスな攻防をした二人。

試合は三沢が勝利したのだった。




三沢と冬木の再会物語は急展開を迎える。

三沢戦の翌日に冬木は病院で精密検査を受けて、直腸がんであることを宣告される。

即刻入院、手術をすることになった。

手術をしなければ命を失いますと言われた冬木は引退を決意する。


4月9日。ノアの仲田が冬木に電話するが冬木の様子がおかしい。

問い詰めると、冬木の口からガンなんだという衝撃の事実を聞かされた。

仲田は早速、三沢に連絡した。

その後の三沢の行動は後に神話となる。 

この日、冬木は自らの主催興行で引退することを決意していた。

会場入りした冬木に三沢からの電話がかかる。


三沢「今日の試合で引退するんだって?」

冬木「試合後に発表するつもりだよ」 
三沢「最後なんだから、そういうことはちゃんとやらないとダメだよ。今から後楽園にいくから」

冬木「いいよ、来なくても」

三沢「いや、行くから」


三沢は電話終了後、後楽園に向かうまでに以下の迅速な決断をした。


①4月14日にノア主催で冬木引退興行をディファ有明で開催。

②冬木新団体WEWの5月5日川崎大会に、三沢の出場を含めてノア全面協力。 
③もし冬木がWEW川崎大会に来場できない事態になった場合は三沢が大会を全面指揮を執る。


この利害を超えた重大な決断を三沢は短時間でやってのけたのである。

さすが三沢光晴である。 

冬木は全試合終了後にガンであることをマスコミの前で公表、三沢を呼び込み、引退を発表した。

そのとき、冬木は泣きながらこういった。


「できれば有明での三沢戦を最後にしたかった…」


4月14日、冬木はノア主催興業で引退した。

FMWが崩壊し、ついてきた選手の面倒、手術や入院費用に頭を悩ませていた冬木にとっては、

三沢&ノアの好意には本当に助かったという。






冬木は引退興行後にこう語った。

「おれはずっとプロレスをやってきて、天龍さんと離れてからひとりだった。

頼れる人はいなかった。自分ひとりで切り盛りしてきた。」 
「つらいとき、最後は三沢に頼れば何とかしてくれるだろうという気持ちがあった。

実際にきっちりオレの面倒を最後まで見てくれて。

プロレス界に入って“心友”が一人いたってことかな…」 


なぜ三沢はこの義侠心に満ちた行動をしたのか?

「別に難しい理由じゃないですよ。友達だからですよ。

周りは騒ぐけど、俺の中では大したことではないんですよ。」 

冬木は大手術に挑み、回復し、5月5日のWEW旗揚げ戦に駆けつけた。

三沢は約束通りに選手を派遣し、自らも試合をした。


そして、セミ終了後に冬木を訪れてこういったという。 
「後はもう大丈夫だよね。じゃあ俺帰るから。」

そして三沢は会場を後にした。

しかし、冬木は旗揚げ戦は成功したものの、ガンが他の臓器に転移していた。

プロレスへの執念を見せるも、再び入院する。






入院した冬木に三沢が訪れた。

冬木「また来たのか」

三沢「顔が見たかったから」

冬木「いると恥ずかしくて寝れないよ」

三沢「じゃあ帰るわ」

これが二人の最後の対面となる。


2003年3月19日、冬木弘道逝去。享年42歳。 

そして三沢はその6年後の2009年6月にリング渦により急死。


仲良しだった仲田龍も2014年2月、心筋梗塞のため死去。

若手時代、全日本の仲良しグループだった男達は、越中以外は天国に旅立っていった。 




三沢はこう語っている。

「俺はそこまでできた人間ではない。

自分の情が入っている人間に対して何かしてあげたいと思うだけで。

自分の目の前で心友が困っているのをほっておくのが嫌なだけなんですよ」


二人の心友関係は後世に残る神話である。