表層だけを見ると、以前と同じ場所を繰り返し辿っているように見えるかもしれません。
外から見ても、そして自分自身から見ても、「また同じ場所に戻ってきたのではないか」と一見すると感じてしまうことがあります。
しかし、同じ行動をしているように見えても、出力される結果にはあきらかな差が生まれます。
なぜ、結果にそれほどの違いが出るのでしょうか。
それは、どのような「Top(高次の視座)」を掴んでいるかの違いによるものかもしれません。
最初に誰から学ぶのか。どこを掴むのか。その違いが、手元で実際に世界へ触れたときの手触りの差となって現れてくるのではないでしょうか。
緯糸(よこいと)の感染と、場のカ
だからこそ、1人で閉じこもらず、高い抽象度を持つコミュニティの中に身を置くことが大切になります。
全体を包摂する大きな絵(ゲシュタルト)は、単なる知識や言葉の暗記ではなく、場を共有する「緯糸」の感染を通じて伝わっていくものだからです。
圧倒的な知性を手に入れ、未来に適応するための古くて新しい方法論を身体に落とし込むことです。
そのための順番が「ゲシュタルト → グラフ→シンタックス(形式化)→セマンテイクス(言語抽象度)」です。
いきなりセマンティクスで議論を始めると、議論が終わりません。
ゲシュタルトは「鵺」のようなものです。
とは言え、主観的なものではなく、共感覚で捉える、間主観的なものです。だからこそその習得にはリアルに場を共有する必要があります。
MiQ空間でのホメオスタシス同調が前提になるのです。
空飛ぶ車でHi-Teaでもご一緒に!ゲシュタルトからSemanticsまでを買く逆極限を支えに!
(まといのばブログより)
1人では到底届かない高い視座へ触れることで、自分を取り巻く関係性の認識そのものが書き換わっていきます。
経糸(たていと)の深化と認識の更新
そのうえで、自分自身の手元で垂直に深く掘り下げていく作業-それを、「経糸」と呼べるのかもしれません。
日々の些細な違和感や身体の感触に触れ、丁寧に観察すること。無意識の領域に沈んでいたものを意識の上に引き上げる「Rゆらぎ」を起こすこと。
手元を深く掘り下げることで、脳内の内部モデル( f )が更新されていきます。
閉じられた視界から見れば同じ円環を回っているように見えても、横から見れば一段高い階層へ静かに移動している。
視座が高まり、世界を捉える認識の構造が変わるからこそ、過去と同じ場面に立ったとしても、生み出されるアウトプットの質も自然と書き換わっていくのだと思います。
計算量の削減と、交点に宿る本来の「利他」
目の前の出来事を一つひとつ解こうとすれば計算量は肥大化してしまいますが、
ゲシュタルトや制御器を掴み、高い視座から全体を捉え直すことで、思考は一気に軽やかになり、より自由に移動できるようになると実感しています。
1人で閉じた思考から抜け出し、ギルドでの感染によって受け取った「緯糸(場・共振)」。
周囲や他者を力づくで変えようとするのではなく、手元で愚直に自分のリアリティを掘り下げた「経糸(垂直深化)」。
Topを掴んだ状態で手元のFactを深掘りしていくからこそ、その深化は周囲の対立や矛盾を否定することなく、
自分を構成する「関係性のシステム全体」ごとLUB(最小上界)へと丸ごと包み込み、引き上げていく確かな力となっていくのだと感じています。
この経糸と緯糸が交差する結節点にこそ、
関係性全体を次元ごと高次元へ進化させる本来の「利他」が立ち上がっていくのではないかと、思っています。
※着想を得た記事・場
・『英雄の時代の終わり、ロマン主義の終わり。数学の世界にたどりついた産業革命?ギルドの復活』
(まといのばブログ)
・『この線は、均質なまま続く土地があり、外部のより大きなマトリックスとの間に差異をつくるところです。』
(Khronos ブログおよび講座での「螺旋的な移動」の体験。)



