耳に返る懐かしい声。

『尚真、』

 その声は、はっきり聞こえた。

『尚真。星良たちの手を、ちゃんと握っていてね』

 久しく思い出すことのなかった母の声だ。

 思い出さなかったのは。

(忙しかったから)

 否、違う。

(生活に追われていたから)

 突然、両親を亡くして。まだ学生の弟妹がいて、自分も職を無くして。

 忙しかったのも、生活に追われていたのも嘘じゃない。

 生きることに必死だったから、思い出さなかった。

 その母の声が。

 久しぶりに、それも鮮やかに蘇ってきた。

 思い出さなかったのは、忘れていたからか。

(忘れようとしていたからか)

 考えないようにしていたのか。
 忘れたふりを、していたのか。

 その母を今さら思い出すなんて。

(身勝手だ)

 そう思うのに。

『尚真、』

 繰り返される。蘇る、懐かしい声。

 そして同時に。

『尚真、』

 懐かしい低温の声。

(父さん、)

 母の声が蘇れば、同時に父の声も蘇る。私を呼ぶ、両親の声。

 数真を見送る。

 入れ替わるように着替えきた若葉が現れる。

「尚真(ショウマ)くん」

「店では店長と呼びなさい」

 自分でも覇気がないのは解った。

 若葉の物問いたげな視線を感じている。けれど応える気が起きず避けるようにダスターを取った。

「それ、やっておいて」

 スプーンやフォークなどのシルバー磨きを若葉に任せテーブルや椅子を拭く。

(数真に説教される日が来るなんて)

 溜め息がもれた。

 淋しいような嬉しいような複雑な溜め息だった。

 双子の姉・星良の背に隠れているような子供だったのに。

 好奇心旺盛で走り回る星良と、いつでもおっとりとその後をついていく数真と。

 星良も弟がついてきているか確かめるように足を止めて。

『すぅくん』

『せーらちゃん』

 星良が数真の手を引いていた。

 その星良の。

(手を引くのは)

 数真の手を引く星良。その空いている方の手を引くのは。

 その役目は。

(オレだったのに)

 私の役目、だったんだ。

 ガチャと裏口のドアが開く。

「おはようございます」

 アルバイトの声だ。

「若葉(ワカバ)くん?」

 数真の声が聞こえたのか、彼がひょいと顔を出す。

「あれ、数真(スウマ)くん。珍しいね」

 数真は若葉に「おはよう」と片手を上げて応える。

 若葉は数真を見て、確かめるように私を見た。

「おはよう。若葉、着替えて来い」

 若葉は少し不満そうだったが数真をちらりと見て納得したようだった。

「じゃあね数真くん」

 今度は若葉が片手をひらひらと振った。

 彼がスタッフルームに消えたのを見送ると「僕も」と数真は窓の外を見る。

「僕も、もう行かなくちゃ。星良ちゃんに連絡してよ? 僕が怒られるんだから」

 数真は「じゃあね若葉くん。お邪魔しました」とスタッフルームに向かって声をかけた。