青葉は何故、私に言わなかったのだろう。

(言えなかった?)

 そんなわけ、ない。それとも私が聞き流してしまっただけだろうか。

 若葉が「珍しいよね」と呟く。私の視線に気付き「でしょ?」と同意を求めて来る。

「兄貴がわざわざ連絡してから来るのも、数真(スウマ)くんが開店前に来るのも。珍しい」

 若葉が本当に聞きたいのは、数真のことか。

「ちょっと話があっただけだ」

 手を振って「たいしたことじゃない」と示す。

「青葉の方も、たいしたことじゃないだろう。ここんとこ、変に忙しいせいだろう」

 若葉は「忙しいケド」と、それでも首を傾げる。だが私がそれ以上、言わないので諦めたようだ。

 付き合いが長い分、私の性格も解っている。兄である青葉の性格も。

 青葉も私も、本当の訳は言わないと察している。

 繰り返し耳に返る懐かしい声。

『尚真、手を、』

「手を、」

「え?」

 若葉の声に、自分の声が口をついて出てしまっていたことを知る。

 私は「何でもない」と首を振る。

「何でもないなら、いいケド……」

 若葉は口を尖らせ視線を逸らす。すねたようだ。

(まだ子どもだなぁ)

 小さな頃から知っているせいか時々、甘えた仕草を見せる。

 学校の友人たちには見せない顔だ。

 彼の兄は「末っ子だから甘やかし過ぎた」なんて言う。

(自分が一番、甘やかしているくせに)

 自分の店でバイトさせるくらい。

「そういや、兄貴から聞いた? 今日、来るって」

 若葉は「わざわざメールが来たんだけど」と私を見た。

「青葉(アオバ)が? 店に?」

 聞いていない。

 若葉が私に確かめるのも無理がない。

 私は若葉の兄・青葉と同居している。

(何も言わなかったぞ)

 胃の辺りがもたれたみたいに、もやもやした。

 繰り返される父と母の声。

『尚真、』

 自分を呼ぶ柔らかい音。

『手を放さないで、』

(手を、)

 私はダスターを握っている手に目を落とす。

 節くれだった男の手。アルコール消毒を頻繁に使うせいか乾いた手のひら、指先。

『お兄ちゃん、』

 振り返る。

 小さな手が差し出される。その手を取るために、自分も手を差し出す。

 握った手は、ふくふくしていた。柔らかな感触、丸い指先。切り揃えられた爪。

 それは私の仕事だった。

『母さんより尚真の方が器用だ』

 からかうように笑う父。母は口を尖らせてすねた振りをした。

 今になって、あれは両親の思惑だったのではないかと、思う。

 私の、兄という立場への。兄という自尊心をくすぐったのではないか。

 両親が他界した今、聞けることはないけれど。

『尚真、手を放さないで』

 こんなにも、鮮やかに蘇るなんて。