海(カイ)ははっと我に返ったような顔をした。

「菖蒲ちゃん? どうしたの?」

 そう首を傾げた。

「どうしたって、別に、」

何もない、と続けようとしたが声が出なかった。わたしは口を噤む。

「大丈夫?」

 わたしの眼を覗き込んでくる。彼の瞳が、心配するように見返してくることが不思議だった。

「水藍(スイラン)は、」

 言葉が続かない。

 言いたいことがあるのに言葉が出ない、浮かばない。だから声も出ない。

 わたしは口を開いたり閉じたりと繰り返すだけ。

 伝えようと、伝えたいと気持ちだけが焦るからますます言葉が浮かばない。

 そんなわたしの気配を察したのか、海はいつもの軽い調子に戻る。

「誰にも会わせないなら、閉じ込めなくちゃ」

 肩を竦める。

「これから先、否、これまでも。水藍は俺の知らない誰かにたくさん出会っているし、出会っていくだろうね」

仕方ない、と苦笑い。

「誰にも会わせたくないなら、閉じ込めて、俺だけ見るようにすれば良い」

 彼は「でもさ、」と続ける。

「俺はそういうの嫌だよ」

 微笑を浮かべている。

「俺が、水藍の世界を狭くすることはできない」

 きっぱりと言い切る。

 教室を出て廊下を行く。階段のところでようやく話し掛けられる。

「俺に何か用かな?」

 軽い調子のようで、だが非難するような響きが含まれている。

 彼はわたしに遠慮しない。だから、わたしも彼に遠慮なんてしない。

「先輩は水藍のこと、本当はどう思っているんですか?」

 海が息を飲んだのが気配で判った。わたしは彼を見上げた。

「先輩は、」

 言葉を選び直す。

「先輩の志望大学を、水藍は知っていますか? 水藍に言いましたか?」

 彼は「何、」と眉根を寄せる。

「先輩は先に卒業します。それは変えられませんし、軽々しく変えて良いことだとも思いません。
 先輩が卒業した後も、水藍は先輩の知らない人にも出会っていきます。先輩はその時、どうしていますか?」

 わたしは一気にまくしまてる。

 海はぽかんとした表情を浮かべている。

 否。

 フリではなく。

(目を逸らしている)

 本当は解っている。

 目を逸らしても、それは常に視界の端にある。

 そういうものだ。

 気付いているのに無理に気付いていないようするから、常に意識の片隅にある。

「水藍」

 聞き慣れた男の声。

「海(カイ)先輩、」

 友人たちの声が1トーン上がる。

「何ですか?」

 水藍は彼をジロリと睨み付ける。無愛想で、素っ気ない。

 海は一瞬だけ怯むけれど、すぐに軽い調子で話し掛ける。

「紫藤先生、知らない?」

 友人たちの誰に聞いても良いのに、級友の誰に話し掛けても良いのに。

 彼は水藍に話し掛ける。

「知りません」

 水藍の言葉は短い。

「だよね、悪い」

 海はそれだけで去って行こうとする。

「先輩、紫藤先生のところならわたしも行って良いですか?」

 ぎょっとしたように海だけでなく、友人たちもわたしを見た。

「菖蒲、」

 わたしは「相談があるの」と水藍を押さえる。

「あ、えっと…?」

 海はわたしと水藍を見比べ、助けを求めるように友人たちを見た。

「じゃあ先輩、行きましょう」

 わたしは席を立ち、海を促す。

 水藍も立とうとするので「後で話すわ」と制した。

 海はわたしと水藍を見比べていたけれど、諦めたようにわたしを見た。