わたしは「八須(ハチス)先生」と声を掛ける。

 彼は驚いたように、身体を跳ねさせた。

(忘れていたわね…)

「何でしょう?」

 振り返り、わたしを見留める。声が少し震えていたようだったのは、驚いた後だからだろう。

 わたしはもう一度「先生、」と呼び掛ける。

 彼は「ハイ」と律儀に返事をする。

「先生。誰かを好きにならなければ、いけませんか?」

わたしは、と続ける。

「それともわたしは…『お姫さまであるわたし』は誰かを選んではいけないのでしょうか?」

 彼に「どちらなんでしょう?」と問い掛ける。

 きっとどちらも違うと思いながら、口にせずにはいられなかった。

 案の定、彼は「どうでしょう」と答を出してはくれなかった。

 彼と目が合う。彼はにこりと微笑む。

「友人にも全部をさらけ出す必要はないと思います。隠し事をする、嘘を吐くこと、そういうこととは別です」

 彼は「嘘ですか?」と質問してくる。

「嘘、」

 わたしはさっきから彼の言葉をなぞってばかりだ。

「君の演じる『お姫さま』は全部、虚像ですか? 君自身はこれっぽっちも含まれていませんか?」

 人差し指と親指で空(くう)を摘む。

「わたし、」

 続く言葉は出て来ない。

 わたし自身のことなのに、何で答えられないのだろう。

 彼は「考え続けてください」としめくくる。

(答は、自分で出せってことね)

 彼は『わたしの答』を探せと言っているのだろう。

 彼は再び机に向かう。わたしはそのまま動かずに彼の背を見ていた。

 時々、手が止まる。すると足をさする。またペンが動き出す。

(本当に癖なのね)

 無意識に触ってしまうのだろう。

 彼は「自分の、」とまた口を開く。

「自分自身の好きなところ、嫌いなところ。両方あるでしょう? まぁ稀に嫌いなところが全く無いなんて方もいますケド」

 ため息混じり。彼の近くには、その『稀な人』がいるのだろう。

 それに、と付け加える。

「例えば誰か好きな人がいて、その人のタイプに近付きたいと演じることは悪いことですか?」

 彼は「もちろん騙すのはダメです」と注意する。

「あ、君の場合は逆ですね」

「逆?」

 自分のことを言われているのにわからず首を傾げる。

「君に好かれたいなら、君の理想近くを演じるべきだったんです。理想の君を求めるのではなく」

妄想の君ですね、と容赦ない。

 理想を押し付けられたのはわたしなのに、彼は少し怒っているように見える。

 それとも、それはわたしの都合の良い解釈だろうか。わたしのために誰かが怒ってくれる、という。

 わたしの希望だろうか。