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  ジョーズ ❛エン❜ ジー       パーティクラブ

 

 

【最後のエルヴィス史】  

 赤沢忠之のエッセイから 

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1973年にはエルヴィス人生最大のイベントがハワイから全世界にテレビ衛星生中継されて「アロハ・フロム・ハワイ」世界中をビックリさせた。
                             
しかしこの年には以前から別居中のプリシラは、エルヴィスが忙しくプリシラをかまってやれず、彼女自身が庭師と不貞をしたとうわさが公然となった。悲しみの離婚が成立してしまった。エルヴィスも40才頃から体の不調の影が見え隠れする様になってきた。度々病気でショーをキャンセルしたり入院騒ぎまで起こす様になった。邸に帰るとベッドでいろいろな薬をたくさん飲んでいた。それでも全米で10都市ライブをこなし、そしてしばらくは安らぎの為、ハワイへ自家用機リサ・マリー号でミュージシャンの仲間友人達と、プリシラと別居後エルヴィスのグレイスランドに同居していたガール・フレンドのリンダ・トンプソンを同行させていた、本土へ戻って8都市のライブ、又13都市のライブ他、続け様にライブ三昧、強行スケジュールをこなしていった。
エルヴィスは、唯ひたすら歌いたかっただけなのだった。歌う楽しみ喜び一筋だったのである。但し1977年6月26日に55回目のライブがインディアナ州インディアナポリス、マーケット・スクエア・アリーナで行なわれ、これが最後のステージになって仕舞い、フィナーレに必ず歌った「好きにならずにいられない」ファンが聴いた最後の歌となった。
16日午前0時28分グレイスランドへ仲間と又新しいステディになったジンジャー・オールデンとも付き合っていて帰宅。ピアノの前に座り、歌を2曲静かに歌った。友人達も帰り、ジンジャー・オールデンと2階の寝室へ二人は引き上げた。エルヴィスはベッドに横になったが、ひとりナカナカ寝付かれないエルヴィスは[The Scientific‥](科学主義)という本を携えて寝室の横にあるバス・ルームに入っていった。午前2時過ぎ、ジンジャーはふと目を覚まし、まだベッドに戻ってこないエルヴィスを捜しにバス・ルームへ行くと声をかけたが返事がない、エルヴィスは青いパジャマを着て赤いカーペットに顔を下にしてうつ伏せのまま倒れていた。ジンジャーは直ぐに邸内電話で階下で勤務中のボディガードのアル・ストラーダに連絡した。ストラーダはエルヴィスの状態を見ると、直ちに電話で邸の裏手にある事務所にいたジョー・エスポジートを呼んだ。二人はジンジャーにバス・ルームから出ている様に指示した。マウス・トゥ・マウスの人工呼吸で懸命にエルヴィスを蘇生させようとした。午前2時33分メンフィス消防署の救急車出動。エルヴィスをパブテスト・メモリアル救急病院へ運び込む。熟練専門医のチームが、懸命な蘇生努力を続けたが、遂に断念せざるを得ない時がやってきた。
8月16日午前3時30分、エルヴィス・アーロン・プレスリーの死亡が宣告される。
享年42歳7ヵ月8日。