亡くなられた方はおられませんが、2人の乗客から負傷の申し出がありました。
しかしその修理を担当したボーイング社の修理手順が正規のものではなく、リベットが確実に板金を止めている状態ではないまま航空運送の現場に戻され、長く運航されていました。
当該機がそのずさんな修理の結果、その後繰り返された飛行によって金属疲労を生じ、7年後の1985年8月12日の悲惨な JAL123便事故に繋がるのですが、これについては既に色々なところで明らかにされているので省きます。
今日のところは、一番最初の部分、大阪空港での尾部接触事故はどのようにして、またそれが何故起きたかについて、暫く検討してみたいと思っています。
着陸時に一旦接地したものの少し浮き上がることは、やや強めの接地となった時に時々起こりえます。
着陸時に操縦を担当していたのは機長ですが、接地から浮揚更に再接地に至る間の、操縦室内の乗員各人の呼称手順と操作手順にこの事故のキーポイントがあります。
(続く)