第1問 次の文章を読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。なお、設問の都合で本文の段落に【1】~【10】の番号を付してある。また、表記を一部改めている。
 

【1】 モーツァルトの没後200年の年となった1991年の、まさにモーツァルトの命日に当たる12月5日に、ウィーンの聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの《レクイエム》の演奏が行われた(直後にLDが発売されている)。ゲオルク・ショルティの指揮するウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場の合唱団などが出演し、ウィーンの音楽界の総力をあげた演奏でもあるのだが、ここで重要なのは、これがモーツァルトの没後200年を記念する追悼ミサという「宗教行事」であったということである。それゆえ、随所に聖書の朗読や祈りの言葉等、「音楽」ではない台詞(せりふ)の部分や聖体拝領などの様々な儀式的所作が割り込む形になる。まさに「音楽」でもあり「宗教行事」でもあるという典型的な例である。

【2】 モーツァルトの《レクイエム》という音楽作品として聴こうとする人は、これをどのように認識するのか? あるCDショップのウェブサイトに掲載されているこの演奏のCDのレビュー欄には、「キリスト教徒でない並みの音楽好きには延々と続く典礼の割り込みには正直辟易(へきえき)としてくるのも事実。CDプレイヤーのプログラミング機能が活躍する」というコメントが見られる。これを「音楽」として捉えようとするこの聴き手が、音楽部分だけをつなぎ合わせてひとまとまりとして捉えるような認識の仕方をしているさまが彷彿(ほうふつ)としてくる。

【3】 それに対して、この催し物は「音楽」である以前に典礼であり、この聴き手のような本来のあり方を無視した聴き方は本末顚倒(てんとう)だとする立場も当然考えられる。こういうものは、典礼の全体を体験してこそその意味を正しく認識できるのであり、音楽部分だけつまみだして云々(うんぬん)するなどという聴き方は、あらゆる音楽を、コンテクストを無視してコンサートのモデルで捉える19世紀的な悪弊にすぎない、一刻も早く、そういう歪(ゆが)みを取り去って、体験の本来の姿を取り戻さなければならない、そういう主張である。
【4】 この主張はたしかに一面の真理ではあろう。だがここでの問題は、19世紀には音楽が典礼から自立したとか、それをまた、本来のコンテクストに戻す動きが生じているというような単純な二分法的ストーリーにおさまるものではない。もちろん、物事には見方によっていろいろな側面があるのは当然なのだから、音楽か典礼かというオールオアナッシングのような議論で話が片付かないのはあたりまえだが、何よりも重要なのは、ここでの問題が、音楽vs.典礼といった図式的な二項関係の説明にはおさまりきれない複合的な性格をもった、しかもきわめてアクチュアルな現代的問題を孕(はら)んでいるということである。
【5】 これが典礼なのか、音楽なのかという問題は、実はかなり微妙である。たしかに、モーツァルトの命日を記念して聖シュテファン大聖堂で行われている追悼ミサであるという限りでは紛れもなく宗教行事であるには違いないが、ウィーン・フィルと国立歌劇場合唱団の大部隊が大挙してシュテファン大聖堂に乗り込んで来ているという段階で、すでにかなり異例な事態である。DVDの映像を見ても、前方の祭壇を中心に行われている司式を見る限りでは通常の「典礼」のようだが、通常の典礼にはない大規模なオーケストラと合唱団を後方に配置するために、聖堂の後ろにある通常の出入り口は閉め切られてしまっている。聖堂での通常の儀礼という範囲に到底おさまりきれないものになっているのだ。客(信徒と言うべきだろうか)もまた、典礼という限りでは、前の祭壇で行われている司式に注目するのが自然であり、実際椅子もそちら向きにセットされているのだが、背後から聞こえてくる音楽は、もはや典礼の一部をなす、というようなレベルをはるかにこえて、その音楽自体を「鑑賞」の対象にしている様子が窺(うかが)える(実際、映像を見ると、「客」が半ば後ろ向きになって、窮屈そうな様子で背後のオーケストラや合唱の方をみている様子が映し出されている)。
【6】 そして何といっても極めつきなのが、この典礼の映像がLD、DVDなどの形でパッケージ化されて販売され、私を含めた大多数の人々はその様子を、これらのメディアを通して体験しているという事実である。これはほとんど音楽的なメディア・イヴェントと言っても過言ではないものになっているのだが、ここで非常におもしろいのは、典礼という宗教行事よりもモーツァルトの「音楽作品」に焦点をあてるという方向性を推し進めた結果、典礼の要素が背景に退くのではなくかえって、典礼をも巻き込む形で全体が「作品化」され、「鑑賞」の対象になるような状況が生じているということである。
【7】 このことは、今「芸術」全般にわたって進行しつつある状況とも対応している。それは「博物館化」、「博物館学的欲望」などの語で呼ばれる、きわめて現代的な現象である。コンサートホール同様、19世紀にそのあり方を確立した美術館や博物館においては、様々な物品を現実のコンテクストから切り取って展示する、そのあり方が不自然だという批判が出てきた。たしかに、寺で信仰の対象として長いこと使われ、皆が頭をなでてすり減っているような仏像が、それ自体、美術的な、あるいは歴史的な価値をもつものとして、寺から持ち出されてガラスケースの中に展示され、それを遠くから鑑賞する、というような体験はとても不思議なものではある。最近ではその種の展示でも、単に「もの自体」をみせるのでなく、それが使われたコンテクスト全体をみせ、そのものが生活の中で使われている状況を可能な限りイメージさせるような工夫がなされたり、作家や作品そのものではなく、その背景になった時代全体を主題化した展覧会のようなものが増えたり、といった動きが進んできた。ところがそのことが、単に元のコンテクストに戻す、ということにとどまらない結果を生み出しているのである。
【8】 美術館や博物館の展示が、物そのものにとどまらず、それを取り巻くコンテクストをも取り込むようになってきていることは、別の見方をすれば、かつては「聖域」として仕切られた「作品そのもの」の外に位置していたはずの現実の時空もろとも、美術館や博物館という「聖域」の中に引きずり込まれた状況であるとみることもできる。それどころか、19世紀以来、こうした場で育まれてきた「鑑賞」のまなざしが今や、美術館や博物館の垣根をのりこえて、町全体に流れ込むようになってきていると言ってよいかもしれない。ディズニーランドやハウステンボスは言うに及ばず、ウィーンでも京都でも、ベルリンや東京でも、いたるところに「歴史的町並み」風の場所が出現し、さながら町全体がテーマパーク化したような状況になっている。そういう場所で人々が周囲の景物に向けるまざざしは、たぶん美術館や博物館の内部で「物そのもの」に向けられていたものに近いものだろう。「博物館化」、「博物館学的欲望」といった語はまさに、そのような心性や状況を言い表そうとしているものである。これまで問題にしてきたシュテファン大聖堂での《レクイエム》のケースも、それになぞらえれば、単に音楽をコンサートから典礼のコンテクストに戻したのではなく、むしろ典礼そのものをもコンサート的なまなざしのうちに置こうとする人々の「コンサートホール的欲望」によって、コンサートの外なる場所であったはずの現実の都市の様々な空間が、どんどん「コンサートホール化」されている状況の反映と言い換えることができるように思われる。

【9】 「音楽」や「芸術」の概念の話に戻り、今のそういう状況に重ね合わせて考え直してみるならば、この状況は、近代的なコンサートホールの展開と相関的に形成されてきた「音楽」や「芸術」に向けるまなざしや聴き方が今や、その外側にまであふれ出てきて、かつてそのような概念の適用範囲外にあった領域にまでどんどん浸食してきている状況であると言いうるだろう。逆説的な言い方になるが、一見したところ「音楽」や「芸術」という伝統的な概念や枠組みが解体、多様化しているようにみえる状況と裏腹に、むしろコンサートホールや美術館から漏れ出したそれらの概念があらゆるものの「音楽化」や「芸術化」を促進しているように思われるのである。だがそうであるならば、「音楽」や「芸術」という概念が自明の前提であるかのように考えてスタートしてしまうような議論に対しては、Cなおさら警戒心をもって周到に臨まなければならないのではないだろうか。このような状況自体、特定の歴史的・文化的コンテクストの中で一定の価値観やイデオロギーに媒介されることによって成り立っているのだとすれば、そこでの「音楽化」や「芸術化」の動きの周辺にはたらいている力学や、そういう中で「音楽」や「芸術」の概念が形作られたり変容したりする過程やメカニズムを明確にすることこそが決定的に重要になってくるからである。
【10】 問題のポイントを簡単に言うなら、「音楽」や「芸術」は決して最初から「ある」わけではなく、「なる」ものであるということになろう。それにもかかわらず、「音楽」や「芸術」という概念を繰り返し使っているうちに、それがいつの間にか本質化され、最初から「ある」かのような話にすりかわってしまい(ちょうど紙幣を繰り返し使っているうちに、それ自体に価値が具(そな)わっているかのように錯覚するようになってしまうのと同じである)、その結果は、気がついてみたら、「音楽は国境を越える」、「音楽で世界は一つ」という怪しげなグローバリズムの論理に取り込まれていたということにもなりかねないのである。
(渡辺(わたなべ)裕(ひろし)『サウンドとメディアの文化資源学――境界線上の音楽』による)

 

(注)
レクイエム…死者の魂が天国に迎え入れられるよう神に祈るための曲。
LD…レーザーディスク。映像・音声の記録媒体の一つ。
ゲオルク・ショルティ…ハンガリー出身の指揮者、ピアニスト(1912~1997)。
ウィーン・フィル…ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のこと。
聖体拝領…キリストの血と肉を象徴する葡萄(ぶどう)酒とパンを人々が受け取る儀式。
アクチュアルな…今まさに直面している。
司式…教会の儀式をつかさどること。ここでは儀式そのものを指す。

 

問4 傍線部C「なおさら警戒心をもって周到に臨まなければならないのではないだろうか」とあるが、筆者がそのように述べる理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
 

① 「音楽」や「芸術」は、コンサートホールや美術館の内部で形成された「博物館学的欲望」に基づいて更新され続けてきた概念である。その過程を無視して概念を自明のものとしてしまうと、概念化を促す原動力としての人々の心性を捉え損ねてしまうから。

② 「音楽」や「芸術」は、コンサートホールや美術館における演奏や展示を通して多様に評価され変容してきた概念である。その過程を無視して概念を自明のものとしてしまうと、「音楽で世界は一つ」などというグローバリズムの論理に取り込まれてしまうから。

③ 「音楽」や「芸術」は、コンサートホールや美術館といった「聖域」が外部へと領域を広げていったことで発展してきた概念である。その過程を無視して概念を自明のものとしてしまうと、あらゆるものが「音楽化」や「芸術化」の対象になってゆく状況を説明できなくなるから。

④ 「音楽」や「芸術」は、コンサートホールや美術館の中で生まれた価値観やイデオロギーを媒介として形作られてきた概念である。その過程を無視して概念を自明のものとしてしまうと、それらの周辺にはたらいている力学の変容過程を明確にすることができなくなるから。

⑤ 「音楽」や「芸術」は、コンサートホールや美術館で育まれた「鑑賞」のまなざしと関わり合いながら成り立ってきた概念である。その過程を無視して概念を自明のものとしてしまうと、それ自体が本質化され、普遍的な価値を持つものとして機能してしまいかねないから。

 


 

 今年(2024年)1月の共通テストの評論の問題を考察していく今シリーズの第4回目です。

 掲載されている本文の全体を読み終わりました。

 第9段落の、

 

 逆説的な言い方になるが、一見したところ「音楽」や「芸術」という伝統的な概念や枠組みが解体、多様化しているようにみえる状況と裏腹に、むしろコンサートホールや美術館から漏れ出したそれらの概念があらゆるものの「音楽化」や「芸術化」を促進しているように思われるのである。

 

のところがどうしても引っかかります。

  にもそのようなところがありましたが、この文章の筆者は「逆説」という言葉の意味がよく分かっていないのではないか、と思われます。

 「逆説」は、評論文を読むときにはとても重要な、頻出のワードです。

 辞書(『学研現代新国語辞典』)で「逆説」を引くと、次のように出ています。

 

ぎゃくせつ【逆説】(paradox) ① 真理に反する説 ② 一見真理ではないことを述べているようで、よく考えると真理を述べている説。「急がば回れ」「負けるが勝ち」などの類。パラドックス。

 

 多くの場合はの意味で使われます。

 「逆説」を「逆接」と混同している人が多くおられますが、全く違います。

 「逆接」とは「しかし」「ところが」などの、前の文に対して後の文が「矛盾・対立の意味を持ちながら結びつけられる」(『学研現代新国語辞典』)ことを表す接続詞です。

 

 「コンサートホールや美術館から漏れ出したそれら(=『音楽』や『芸術』)の概念があらゆるものの『音楽化』や『芸術化』を促進している」ことと、「一見したところ『音楽』や『芸術』という伝統的な概念や枠組みが解体、多様化しているようにみえる」こととの間には自然な因果関係があるのであり、そこに「逆説」はありません。

 

 それはともかくとして、問4を解くために、本文の第9~10段落の内容について考えましょう。

 

 本文の第1~8段落では、いろいろな事柄について筆者が説明しているだけだったので、比較的書いていることが分かりやすかったのですが、第9~10段落で筆者の主張が出てくると、途端(とたん)になんのことやら分からなくなりました。

 

 傍線部C「なおさら警戒心をもって周到に臨まなければならないのではないだろうか」のように筆者が述べる理由が問4では問われています。

 何に対して「なおさら警戒心をもって周到に臨まなければならない」のかというと、それは、その前にある「『音楽』や『芸術』という概念が自明の前提であるかのように考えてスタートしてしまうような議論」に対してです。

 そして、その前に「だがそうであるならば、」とあるので、「だがそうであるならば、」「そう」の内容が傍線部Cの理由です。

 「そう」という 「幅広い指示語」 は、第9段落のそれよりも前の部分全体を指していますから、まとめると「音楽や芸術の概念が作品そのものにとどまらず、その外側のあらゆるものへ拡大しつつあること」ということになるでしょう。

 

 傍線部Cのあとにも、傍線部Cのように筆者が述べる理由が説明されています。

 

このような状況自体、特定の歴史的・文化的コンテクストの中で一定の価値観やイデオロギーに媒介されることによって成り立っているのだとすれば、そこでの「音楽化」や「芸術化」の動きの周辺にはたらいている力学や、そういう中で「音楽」や「芸術」の概念が形作られたり変容したりする過程やメカニズムを明確にすることこそが決定的に重要になってくるからである。

 

 よく分かりません。

 第9段落は余りにも難解だったので、第10段落でもう一度まとめ直されています。

 

【10】 問題のポイントを簡単に言うなら、「音楽」や「芸術」は決して最初から「ある」わけではなく、「なる」ものであるということになろう。それにもかかわらず、「音楽」や「芸術」という概念を繰り返し使っているうちに、それがいつの間にか本質化され、最初から「ある」かのような話にすりかわってしまい(中略)、その結果は、気がついてみたら、(中略)怪しげなグローバリズムの論理に取り込まれていたということにもなりかねないのである。

 

 結局よく分からないのですが、筆者は音楽や芸術の概念が一般の人々の生活の中へ広がっていくことに対して否定的であることはなんとなく分かります。

 

 少し視点を変えて考えてみましょう。

 国語的にではなく、心理学的に考えてみるのです。

  Amazon によれば、筆者は大衆音楽の研究を専門にされているようです。

 この本文の出典である著作(『サウンドとメディアの文化資源学――境界線上の音楽』)も、レビューによれば大衆音楽の歴史について書かれた本です。

 大衆音楽の専門家が、音楽の大衆化になぜ反対なのでしょうか?

 

 自分は大衆音楽を専門に研究してはいるが、本当はそういった低俗な音楽ではなく、クラシックのような高尚な芸術を好み、よく理解することのできる、繊細な感覚を持った教養のある知識人なのである、誤解しないでほしい…教養の低い一般の人たちが音楽を本当の意味で理解することなどできるはずがないのである…そのような屈折した心理を感じます。

 障害者をケアする仕事に従事している人が、内心では障害者のことをすごく差別し、自分はこのような者たちとは違う、と見下している場合が往々(おうおう)にしてあるのに似て、この文章の筆者は大衆音楽を専門にしていることで、かえって大衆音楽を否定し、見下しているのである…これこそ「逆説」ではありませんか?

 

 「それはあなたの想像でしょう?」と言われたら、それはそうです。

 それは僕の想像に過ぎません。

 しかし、そのように想像することで、ようやくこの文章で筆者が言わんとしていることが、くっきりと見えてくることも事実です。

 

 問4の答えを考えましょう。

 心理学的にはそういうことだとしても、これは国語の問題なので、心理学的にではなく国語的に解釈しなければなりません。

 国語的な解釈とは、心理学的な解釈と比較すると、ひどく底が浅くて表面的なのです。

 文字面(もじづら)だけでまとめなければなりません。

 さあ、頑張って、自分なりの解答をこしらえてみてください。

 

 できましたか?

 僕はこのようにまとめてみました。

 

 音楽や芸術の概念が拡大しつつある今日(こんにち)において、それらの歴史的な変容過程を理解することなく自明な前提として考えてしまうと、それが最初から本質的なものであると誤解してしまう危険があるから。

 

 自分でももう一つ意味が分かりませんが、他にまとめようもないのでこのくらいにして、選択肢を見ていきましょう。

 比較的近いのはでしょうか?

 「音楽や芸術の概念が拡大しつつある」という要素が入っていませんが、作問者(この問題を作った人)もこの第9~10段落はおそらくなんのことだか分からなかったでしょうから、我々もこれ以上考えても仕方がないという気がします。

 次の問いに進みましょう。

 

問5 この文章の構成・展開に関する説明として適当でないものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 

① 【1】段落は、議論の前提となる事例をその背景や補足情報とともに提示して導入を図っており、【2】・【3】段落は、【1】段落で提示された事例について説明しながら二つの異なる立場を紹介している。

 

② 【4】段落は、【2】・【3】段落で紹介された立場を基に問題を提起しており、【5】・【6】段落は、【4】段落で提起された問題についてより具体的な情報を付け加えた上で議論の方向づけを行っている。

 

③ 【7】段落は、前段落までの議論をより一般的な事例を通して検討し直すことで新たに別の問題への転換を図っており、【8】段落は、【7】段落から導き出された観点を基に筆者の見解を提示している。

 

④ 【9】段落は、【7】・【8】段落で導き出された観点に基づいて問題点を指摘しており、【10】段落は、その問題点を簡潔に言い換えつつ【9】段落の議論から導かれた筆者の危惧を示している。

 

 この問いが、この大問1の中で一番の難問です。

 選択肢を見る前に正解を作ることができない、というだけでも解きにくい上に、自分の経験上、文章全体の構成のとらえ方というのは個人差が大きく、自分の読みと作問者の読みとが食い違いやすいのです。

 文章の一部分の解釈の方が、そういう意味ではまだましです。

 とは言え、これは入試問題なので、文句ばっかり言っていても仕方がありません。

 みなさんも、次回のブログ更新(おそらく再来週中)までに必ず自分で考えて解いてみること!

 

画像は『チャート式シリーズ・

新倫理』(数研出版)から。

心理学大好き!

逆に、心理学に興味がないと

いう人の心理が分かりません。

 

(つづく)