今回から、何回かに分けて、『共通テスト・2024年・国語』の大問1、評論の問題を、みなさんと一緒に読みつつ考察しつつ解いていこうと思います。

 本文は渡辺(わたなべ)裕(ひろし)さんによる『サウンドとメディアの文化資源学――境界線上の音楽』から。

 渡辺裕さんという方については、申しわけないのですが、僕は全く存じ上げません。

 ChatGPTに

「渡辺(わたなべ)裕(ひろし)さんについて教えてください。」

と問いかけてみたところ、

「申し訳ございませんが、私のデータベースには渡辺裕さんに関する情報はありません。渡辺裕さんが一般的に知られている有名人や特定の分野での専門家である可能性がありますが、詳細についてはお知りではありません。もし特定の渡辺裕さんに関する情報が必要であれば、追加の詳細を提供していただければ、お手伝いできるかもしれません。」

ということで、ChatGPTさんはお知りではありません、ということでした。

 でも、本当はきっととても有名な人なんだろうと思います。

 

第1問 次の文章を読んで、後の問い(問1~6)に答えよ。なお、設問の都合で本文の段落に【1】~【10】の番号を付してある。また、表記を一部改めている。

 

【1】 モーツァルトの没後200年の年となった1991年の、まさにモーツァルトの命日に当たる12月5日に、ウィーンの聖シュテファン大聖堂でモーツァルトの《レクイエム》の演奏が行われた(直後にLDが発売されている)。ゲオルク・ショルティの指揮するウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場の合唱団などが出演し、ウィーンの音楽界の総力をあげた演奏でもあるのだが、ここで重要なのは、これがモーツァルトの没後200年を記念する追悼ミサという「宗教行事」であったということである。それゆえ、随所に聖書の朗読や祈りの言葉等、「音楽」ではない台詞(せりふ)の部分や聖体拝領などの様々な儀式的所作が割り込む形になる。まさに「音楽」でもあり「宗教行事」でもあるという典型的な例である。

【2】 モーツァルトの《レクイエム》という音楽作品として聴こうとする人は、これをどのように認識するのか? あるCDショップのウェブサイトに掲載されているこの演奏のCDのレビュー欄には、「キリスト教徒でない並みの音楽好きには延々と続く典礼の割り込みには正直辟易(へきえき)としてくるのも事実。CDプレイヤーのプログラミング機能が活躍する」というコメントが見られる。これを「音楽」として捉えようとするこの聴き手が、音楽部分だけをつなぎ合わせてひとまとまりとして捉えるような認識の仕方をしているさまが彷彿(ほうふつ)としてくる。

【3】 それに対して、この催し物は「音楽」である以前に典礼であり、この聴き手のような本来のあり方を無視した聴き方は本末顚倒(てんとう)だとする立場も当然考えられる。こういうものは、典礼の全体を体験してこそその意味を正しく認識できるのであり、音楽部分だけつまみだして云々(うんぬん)するなどという聴き方は、あらゆる音楽を、コンテクストを無視してコンサートのモデルで捉える19世紀的な悪弊にすぎない、一刻も早く、そういう歪(ゆが)みを取り去って、体験の本来の姿を取り戻さなければならない、そういう主張である。

【4】 この主張はたしかに一面の真理ではあろう。だがここでの問題は、19世紀には音楽が典礼から自立したとか、それをまた、本来のコンテクストに戻す動きが生じているというような単純な二分法的ストーリーにおさまるものではない。もちろん、物事には見方によっていろいろな側面があるのは当然なのだから、音楽か典礼かというオールオアナッシングのような議論で話が片付かないのはあたりまえだが、何よりも重要なのは、ここでの問題が、音楽vs.典礼といった図式的な二項関係の説明にはおさまりきれない複合的な性格をもった、しかもきわめてアクチュアルな現代的問題を孕(はら)んでいるということである。

【5】 Aこれが典礼なのか、音楽なのかという問題は、実はかなり微妙である。たしかに、モーツァルトの命日を記念して聖シュテファン大聖堂で行われている追悼ミサであるという限りでは紛れもなく宗教行事であるには違いないが、ウィーン・フィルと国立歌劇場合唱団の大部隊が大挙してシュテファン大聖堂に乗り込んで来ているという段階で、すでにかなり異例な事態である。DVDの映像を見ても、前方の祭壇を中心に行われている司式を見る限りでは通常の「典礼」のようだが、通常の典礼にはない大規模なオーケストラと合唱団を後方に配置するために、聖堂の後ろにある通常の出入り口は閉め切られてしまっている。聖堂での通常の儀礼という範囲に到底おさまりきれないものになっているのだ。客(信徒と言うべきだろうか)もまた、典礼という限りでは、前の祭壇で行われている司式に注目するのが自然であり、実際椅子もそちら向きにセットされているのだが、背後から聞こえてくる音楽は、もはや典礼の一部をなす、というようなレベルをはるかにこえて、その音楽自体を「鑑賞」の対象にしている様子が窺(うかが)える(実際、映像を見ると、「客」が半ば後ろ向きになって、窮屈そうな様子で背後のオーケストラや合唱の方をみている様子が映し出されている)。

【6】 そして何といっても極めつきなのが、この典礼の映像がLD、DVDなどの形でパッケージ化されて販売され、私を含めた大多数の人々はその様子を、これらのメディアを通して体験しているという事実である。これはほとんど音楽的なメディア・イヴェントと言っても過言ではないものになっているのだが、ここで非常におもしろいのは、典礼という宗教行事よりもモーツァルトの「音楽作品」に焦点をあてるという方向性を推し進めた結果、典礼の要素が背景に退くのではなくかえって、典礼をも巻き込む形で全体が「作品化」され、「鑑賞」の対象になるような状況が生じているということである。

 

(注)

レクイエム…死者の魂が天国に迎え入れられるよう神に祈るための曲。

LD…レーザーディスク。映像・音声の記録媒体の一つ。

ゲオルク・ショルティ…ハンガリー出身の指揮者、ピアニスト(1912~1997)。

ウィーン・フィル…ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のこと。

聖体拝領…キリストの血と肉を象徴する葡萄(ぶどう)酒とパンを人々が受け取る儀式。

アクチュアルな…今まさに直面している。

司式…教会の儀式をつかさどること。ここでは儀式そのものを指す。

 

 第6段落の後半が、どうにも理解不能です。

 第7段落以降の話の展開につなげようとしている、というのは分かるのですが、「典礼という宗教行事よりもモーツァルトの「音楽作品」に焦点をあてるという方向性を推し進めた結果、典礼の要素が背景に退くのではなくかえって、典礼をも巻き込む形で全体が「作品化」され、「鑑賞」の対象になるような状況が生じている」とは一体どういうことでしょうか? 何が「かえって」なのかが分かりません。

 何かうまいこと言おうとして、自分でも何を言っているのかよく分からなくなっているような状態かと思います。

 それから、第4段落の最後の「アクチュアルな現代的問題」というのは、「僕と一緒にトゥギャザーしようぜ!」と言っているのと同じような、おかしな日本語であると思います。

 それはともかく、ここで問2へ行きます(問1は漢字の問題なので省略)。

 

問2 傍線部A「これが典礼なのか、音楽なのかという問題は、実はかなり微妙である。」とあるが、筆者がそのように述べる理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

 

① 追悼ミサにおける《レクイエム》は、音楽として捉えることもできるが、それ以前に典礼の一部なのであり、典礼の全体を体験することによって楽曲本来のあり方を正しく認識できるようにもなっているから。

 

② 追悼ミサにおける《レクイエム》は、もともと典礼の一要素として理解されてはいたが、聖書の朗読や祈りの言葉等の儀式的な部分を取り去れば、独立した音楽として鑑賞できると認識されてもいるから。

 

③ 追悼ミサにおける《レクイエム》は、典礼の一要素として演奏されたものではあったが、参列者のために儀式と演奏の空間を分けたことによって、聖堂内でありながら音楽として典礼から自立することにもなったから。

 

④ 追悼ミサにおける《レクイエム》は、典礼の一部として受容されてはいたが、演奏を聴くことを目的に参列する人やCDを購入する人が増えたことで、典礼が音楽の一部と見なされるようにもなっていったから。

 

⑤ 追悼ミサにおける《レクイエム》は、典礼を構成する一要素であるが、その典礼から切り離し音楽として鑑賞することもでき、さらには典礼全体を一つのイヴェントとして鑑賞するような事態も起きているから。

 

 さて、正解はどれでしょうか?

 ヒントとしては、傍線部の中に「これ」という指示語が入っているので、まずは「これ」が何を指しているのかを押さえてください。

 まあ、たいしたヒントではなかったですね。

 国語の問題集の解説って、何を見てもその程度のことしか書いてないとは思うんですが。

 国語の問題を解くために本当に必要なことだけは、どこにも書いていないように思います。

 その「本当に必要なこと」がなんなのかということを、僕は探究していきたいのです。

 

画像は『ニューステージ世界史詳覧』
(浜島書店・2012年版)から。

子供の頃から音楽に親しむ環境で

育ったかどうかということは、

その後の人生におそらく大きな

影響を与えるんでしょうね。

 

(つづく)