第1問 次の文章は、香川(かがわ)雅信(まさのぶ)『江戸の妖怪革命』の序章の一部である。本文中でいう「本書」とはこの著作を指し、「近世」とは江戸時代にあたる。これを読んで、後の問い(問1~5)に答えよ。なお、設問の都合で本文の段落に【1】~【18】の番号を付してある。
【1】 フィクションとしての妖怪、とりわけ娯楽の対象としての妖怪は、いかなる歴史的背景のもとで生まれてきたのか。
【2】 確かに、鬼や天狗(てんぐ)など、古典的な妖怪を題材にした絵画や芸能は古くから存在した。しかし、妖怪が明らかにフィクションの世界に属する存在としてとらえらえ、そのことによってかえっておびただしい数の妖怪画や妖怪を題材とした文芸作品、大衆芸能が創作されていくのは、近世も中期に入ってからのことなのである。つまり、フィクションとしての妖怪という領域自体が歴史性を帯びたものなのである。
【3】 妖怪はそもそも、日常的理解を超えた不可思議な現象に意味を与えようとする民俗的な心意から生まれたものであった。人間はつねに、経験に裏打ちされた日常的な原因-結果の了解に基づいて目の前に生起する現象を認識し、未来を予見し、さまざまな行動を決定している。ところが時たま、そうした日常的な因果了解では説明のつかない現象に遭遇する。それは通常の認識や予見を無効化するため、人間の心に不安と恐怖を喚起する。このような言わば意味論的な危機に対して、それをなんとか意味の体系のなかに回収するために生み出された文化的装置が「妖怪」だった。それは人間が秩序ある意味世界のなかで生きていくうえでの必要性から生み出されたものであり、それゆえに切実なリアリティをともなっていた。A民間伝承としての妖怪とは、そうした存在だったのである。
【4】 妖怪が意味論的な危機から生み出されるものであるかぎり、そしてそれゆえにリアリティを帯びた存在であるかぎり、それをフィクションとして楽しもうという感性は生まれえない。フィクションとしての妖怪という領域が成立するには、妖怪に対する認識が根本的に変容することが必要なのである。
【5】 妖怪に対する認識がどのように変容したのか。そしてそれは、いかなる歴史的背景から生じたのか。本書ではそのような問いに対する答えを、「妖怪娯楽」の具体的な事例を通して探っていこうと思う。
(以下略)
問2 傍線部A「民間伝承としての妖怪」とは、どのような存在か。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① 人間の理解を超えた不可思議な現象に意味を与え日常世界のなかに導き入れる存在。
② 通常の認識や予見が無効となる現象をフィクションの領域においてとらえなおす存在。
③ 目の前の出来事から予測される未来への不安を意味の体系のなかで認識させる存在。
④ 日常的な因果関係にもとづく意味の体系のリアリティを改めて人間に気づかせる存在。
⑤ 通常の因果関係の理解では説明のできない意味論的な危機を人間の心に生み出す存在。
僕は以前、東進衛星予備校という学習塾で働いていました。
東進衛星予備校は映像授業の塾で、おのおのの校舎は東進ハイスクールとフランチャイズ契約を結んで運営しています。
生徒たちに勉強を教えるのは、映像の中の、いわゆる「カリスマ講師」と言われる先生たちです。
「今でしょ!」でお馴染みの林(はやし)修(おさむ)先生なんかが特に有名ですね。
僕が東進で働いていた頃は、林先生はまだブレイク前でしたが、生徒たちからは「授業が分かりやすい!」と評判でした。
僕は当時校舎スタッフとして、生徒たちの担任業務を担当し、受験指導をしたり勉強の質問に答えたりしていました。
東進は映像授業なので、生徒たちは自分が受講したい授業をそれぞれ申し込み(もちろん有料です)、受付でDVDを借り、ブースに移動して、見て勉強していました。
現在ではDVDではなく、オンライン配信になっているようです。
生徒たちにお薦めの授業をアドバイスするのも担任の仕事です。
それぞれの生徒の現在の学力や志望校、性格的な相性を勘案しながら、講座提案をおこないます。
現代文の場合、僕は、当時、現代文の苦手な子には板野(いたの)博行(ひろゆき)先生、ある程度できる子には林先生の授業を薦めていました。
それぞれの先生の担当する授業への申し込み数に応じてインセンティブ契約があったはずですから、板野先生、林先生からは多少は感謝されてもいいでしょう。
板野先生は既に人気講師でしたが、林先生の知名度はまだそれほどではなかったのです。
話は少し変わりますが、当時、東進ハイスクールで毎月発行している『東進タイムズ』という、生徒たちに配付する用の新聞があり、各校舎では生徒の人数分の『東進タイムズ』を半強制的に注文させられていました(もちろん有料です)。まあ、よくあるフランチャイズビジネスですね。
『東進タイムズ』には、そのときどきでの受験情報や、生徒たちに活(かつ)を入れるような内容の記事が主に載っていて、生徒たちはそんな記事は余り読みたくないので、ほとんど読まれることなく、そのまま処分されることになります。
ある日、仕事中に、塾のカウンターに山積みになった今月の『東進タイムズ』を開き、ぱらぱらとめくっていました。
中には、ちょっとおもしろい記事もあるのです。
東進の先生方によるエッセイ的な記事もときどき載っていました。
その号には、板野先生による、「愛について」というような、タイトルはうろ覚えですが、そのような内容の文章が載っていました。
「好きな人の、ちょっとしたしぐさにも胸がときめくのには、理由があります。」
「ある書道家の話によると、全ての文字の中で最も単純は文字は漢字の「一」ですが、この横棒1本の中にも、それを書いた人の性格、人柄、人生、その全てが表れているのです。」
「好きな人のちょっとした、何気(なにげ)ないしぐさの中にも、その人の全存在が表現されている、と考えると、それを見ていて胸がときめくのは当然でしょう。」
こんな感じの文章でした。
板野先生はなかなかのロマンチストですね。
きっと女性にももてるのではないでしょうか。
単にロマンチストなだけならよかったのですが、板野先生はその後、その愛を間違った方向に向けてしまい、大きな罪を犯してしまいました。
板野先生の書かれた多くの受験参考書が、本屋さんの国語コーナーから一斉に撤去され、一時(いっとき)、本棚はがらがらになってしまいました。
そのくらい、板野先生の書いた国語の参考書は人気があったのです。
それからもう何年も経ちました。
板野先生が最近どうされているのかは知りませんが、板野先生の参考書類は、装いを新たにして、ステルス的に本屋さんに戻ってきています。
例えば、これが僕が以前に買って持っている愛読書です。
それが、現在ではこのような形になりました!
Amazon に載っている表紙の画像から。
中身は『565(ゴロゴ)パターン集』と
ほとんど同じだよ!
罪を憎んで人を憎まず。
板野先生は、人間的にはいろんな問題があったのかも知れませんが、現代文講師としての腕は確かです。
この本の中で説明されている板野式読解法は、現在でも有効なものです。
板野式読解法は、「記号化」と「パターン」にその特徴があります。
「記号化」とは、文章を読みながら、「順接マーク」「逆接マーク」などの記号を書き込んでゆき、文章全体の構造を読み解いてゆくという方法です。
「パターン」とは、実際に問題を解いてゆくに当たって使われる解法パターンのことで、次に挙げる「秘伝5パターン」が特に重要です。
① Aではなく、Bパターン
② A、つまりBパターン
③ 幅広い指示語パターン
④ Aとは~パターン
⑤ 傍線部中あるいは傍線部の直前の指示語パターン
「Aではなく、Bパターン」が特におもしろいので、詳しく説明したいのですが、それはまたの機会に譲って、今日みなさんと一緒に解こうとしている問2に関しては、上に挙げた「秘伝5パターン」のうちの「③ 幅広い指示語パターン」が有効です。
「幅広い指示語」とは、「これ」や「それ」のように、ピンポイントで何かを指し示す指示語とは違って、「このような」「そのような」「こうした」「そうした」「こういった」「そういった」のような、もう少しぼんやりとしたものを幅広く指す指示語たちのことです。
傍線部の中、あるいは前後にこのような「幅広い指示語」が含まれている場合は、その指示語の指す内容が解答にからむ場合が非常に多いのです。
この問2で問われている傍線部A「民間伝承としての妖怪」の直後に「そうした存在」という、幅広い指示語を含む表現がありますね。
「そうした存在」の指している内容がずばりこの問いの答えであり、その内容とはこの【段落3】の始めの「妖怪はそもそも、」から傍線部Aの直前の「~をともなっていた。」までの部分を指していますから、この部分を要領よくまとめてある選択肢が正解です。
ということで、まずは自分なりに該当箇所の要約を作り、そして正解がどれなのか、しばし考えてみてください。
…もういいでしょうか?
該当箇所を要約すると、次のようになるでしょう。
「民間伝承としての妖怪とは、人間の心に不安と恐怖を喚起する、日常的理解を超えた不可思議な現象を、なんとか日常的な意味の体系の中に回収するために生み出された文化的装置である。」
ということで、正解は①です。
このように局所的な読みで解ける問題には、「パターン」は特に有効です。
それに対して、文章全体の内容から解く問題は、結局、本文の意味が理解できなければ解けないので、パターンだけでは解けなくなってきます。
なので、板野式は万能なわけではないのですが、テクニックとしては役に立つので、大いに利用すればよいのではないかと思います。
ということで、問2の解説は以上ですが、次回までに、みなさんに問3について考えておいていただくために、本文の続きと問3を以下に載せておきます。
【6】 妖怪に対する認識の変容を記述し分析するうえで、本書ではフランスの哲学者ミシェル・フーコーの「アルケオロジー」の手法を援用することにしたい。
【7】 アルケオロジーとは、通常「考古学」と訳される言葉であるが、フーコーの言うアルケオロジーは、思考や認識を可能にしている知の枠組み…「エピステーメー」(ギリシャ語で「知」の意味)の変容として歴史を描き出す試みのことである。人間が事物のあいだにある秩序を認識し、それにしたがって思考する際に、われわれは決して認識に先立って「客観的」に存在する事物の秩序そのものに触れているわけではない。事物のあいだになんらかの関係性をうち立てるある一つの枠組みを通して、はじめて事物の秩序を認識することができるのである。この枠組みがエピステーメーであり、しかもこれは時代とともに変容する。事物に対する認識や思考が、時代を隔てることで大きく変貌してしまうのだ。
【8】 フーコーは、十六世紀から近代にいたる西欧の「知」の変容について論じた『言葉と物』という著作において、このエピステーメーの変貌を、「物」「言葉」「記号」そして「人間」の関係性の再編成として描き出している。これらは人間が世界を認識するうえで重要な役割を果たす諸要素であるが、そのあいだにどのような関係性がうち立てられるかによって、「知」のあり方は大きく様変わりする。
【9】 本書では、このアルケオロジーという方法を踏まえて、日本の妖怪観の変容について記述することにしたい。それは妖怪観の変容を「物」「言葉」「記号」「人間」の布置の再編成として記述する試みである。この方法は、同時代に存在する一見関係のないさまざまな文化事象を、同じ世界認識の平面上にあるものとしてとらえることを可能にする。これによって日本の妖怪観の変容を、大きな文化史的変動のなかで考えることができるだろう。
【10】 では、ここで本書の議論を先取りして、Bアルケオロジー的方法によって再構成した日本の妖怪観の変容について簡単に述べておこう。
(以下略)
問3 傍線部B「アルケオロジー的方法」とは、どのような方法か。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
① ある時代の文化事象のあいだにある関係性を理解し、その理解にもとづいて考古学の方法に倣い、その時代の事物の客観的な秩序を復元して描き出す方法。
② 事物のあいだにある秩序を認識し思考することを可能にしている知の枠組みをとらえ、その枠組みが時代とともに変容するさまを記述する方法。
③ さまざまな文化事象を「物」「言葉」「記号」「人間」という要素ごとに分類して整理し直すことで、知の枠組みの変容を描き出す方法。
④ 通常区別されているさまざまな文化事象を同じ認識の平面上でとらえることで、ある時代の文化的特徴を社会的な背景を踏まえて分析し記述する方法。
⑤ 一見関係のないさまざまな歴史的事象を「物」「言葉」「記号」そして「人間」の関係性に即して接合し、大きな世界史的変動として描き出す方法。
さて、正解はどれでしょうか?
(つづく)